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2012年1月9日 の記録
久保田 春男さん【湯口地区】
投稿者:早川峻介
カテゴリー:
土地の人に聞け
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73歳(平成24年1月6日取材時)
先祖は秋田から湯口に来た。先祖のことなどを書いた『晴山家の絆』という本も著している。花巻市議会議員をつとめた。
久保田姓と稗貫氏
私は「久保田」という名字なんですけども、ここに根を下ろした久保田一族がありまして、私の本家なんです。ここは稗貫時代に本家が切り開いた村なんです。ここはもともとは、湯口村の語源になった湯口氏というのがいたんですよ。稗貫氏の重臣だったそうです。今の射撃場の対岸の方に舘があったそうです。ところが、稗貫氏は豊臣秀吉が小田原城攻めをしたときに行かなかった。行ったが、戦いが終わってから着いてしまったもんだから、稗貫氏はやられた。最後の当主は稗貫広忠で、矢沢で亡くなったそうですね。その後、秀吉は南部に稗貫氏の領域を与えたわけ。そしたら広忠の奥さんは自分の亭主が殺されたのにも関わらず、お家再興を願って南部さ後妻に入ったそうですよ。そんな悲しい物語がありますね。
安倍氏との関わり
ここは湯口村という村だった。そこさ我が先祖、久保田が秋田から入ってきたんですよ。秋田から入ってきた理由、そもそも久保田の前身はなんだろうと思って…。記録がないんですけど、あちこち繋ぎ合わせると出て来るんですよ。
安倍貞任っていたじゃないですか。貞任の親は頼時という人で、貞任、宗任、正任、家任、重任……とにかく子供がいっぱいいたそうです。貞任は最後に盛岡の厨川でバッサリやられた。その人の弟・家任が久保田と名乗っているんですよ。安倍一族の末裔だなと思ったんです。
屋号は「番所」
ここの家と高い杉の真ん中、ここから100メートルくらいのところに大本家があったそうです。私が小さい頃まで井戸があったんですよ。兄弟といわれる私の晴山家の本家は、宝龍権現さんがあったところの大きな屋敷なんですよね。それから血をわけた分家が11軒あるんです。その絆が今もしっかりと続いているんです。
昔は肝入りの家が役所だったんですよ。玄関入ると応接間。そこが「番所」という部屋だったんです。私の初代の先祖は久保田善助の弟なんですね。弟は兄貴のカバン持ちやって役所仕事をした。初代は善兵エという人なんですが、その人が分家になって、屋号が「番所」。いつも番所にいたから「番所」という屋号になっちゃったんですね。その他の方々は、ほとんど名前なんだよね。
名字帯刀を許された久保田善助
時の晴山家の3代目、久保田善助が元々、侍なもんだから南部藩と近づいたんだね。あっちからお金持って来たんだよ。持参金あったの。だから南部藩が困っていた時お金出して、改めて名字帯刀を許されたんですね。8代将軍吉宗の時代なんですけど。初代は1600年代ですからね。逃げてきて、ようやくここに居を構えた。そして帯刀するのに3代かかった。善助は名字帯刀許されて、湯口村の一角に25軒の村をたちあげたんですよ。それが西晴山村。安政5年の検地帳には西晴山村ってなっていますから、その前に西はついているんですよ。そういうわけで湯口村と晴山村と併せて、3代善助は肝入りをしたんですよ。何代か我が一族が湯口を治めたんですね。花巻まで行くのに、人の地所を渡ることなかったそうですよ。
湯口のスケート場
昭和45年の国体のクレー射撃場会場は、ただの原野でした。その後、市役所で、その用地を使ってスケート場を造ったことあるんですよ。私もスケートのインストラクターの免許とって教えたことあるよ。野外だからすごくお金がかかったんですよね。屋根をかけるお金を削ったために、(かえって)維持費が余計かかったんだね。夏は射撃場、冬はスケート場という利用の仕方だったんですね。あそこのスケート場は17年間ほどやりましたよ。みんなに愛されてね。石鳥谷にまだアリーナ出来ない頃だから、石鳥谷からも冬休みに子どもたちが来たね。
花巻電鉄鉛線の廃止と思い出
昔は市民の足っていえばバスだった。その前は電車だった。私は高等学校の3年間、花巻駅まで電車で通ったんですよ。(停車する)5分前に走っていくんですよ。ブーンって発車すると同時に飛び乗るんです。電車は良かったですよ。今も残していれば、なんぼ観光のために役立ったか。花巻温泉の方に行くのと鉛温泉に行くのと2本出てたんですよね。あれを今残してたったら相当役に立ったね。花巻温泉は会社が、そもそもあちらの社長さんだったから電車は良かったんですけどね、こちらさ来たのは、今、「市民の家」に(展示・設置して)ある馬面(うまづら)電車。広い電車より良かったんですよ。女の子が座っていれば、その前さ座る。そうすれば揺れたとき、膝がくっつく(笑)。立てなかったんです。重なるようにして乗ってね、満員でぶら下がって乗ったもんです。
鍋倉新田堰
今の北幹線なんですけど、昔は「鍋倉新田堰」って言ったんですよ。水の取り入れ口は、志戸平温泉の東側にある頭首工なんですね。そこから地面を掘って穴堰にする。その穴堰を掘るときの肝入りが、さっき言った善助なんですよ。殿様の至上命令で鍋倉を開田するために、豊沢川から水を引けということだったんですね。それを完成させたのが久保田善助。
神明神社なんですけどね、善助は穴の通水祈願のために神社を再建したんですよ。1738年に伊藤久慶という侍の工事屋さんと一緒になって頑張ったんですね。村をあげてやったのなんですけどね。
その前に一回掘った人がいるんですよ。煤孫ジヘイモリタダという人でね、その人が穴堰に詳しい人で、その人が先に掘っても水が通らなかったそうです。通らないために、祈願で若い女の子を裸馬さ上げてその辺りをぐるぐるぐるぐる引き回ししたそうですよ。そして満願の日、七日目に水がドーンと流れてきた。その馬も女の子も息命絶えてしまったというお話があるんです。これは花巻市民の命をまかなっているんですよ。当時の先輩たちは偉いね。きっと事故で亡くなった方もあるでしょうね。それから、藩から財源をお借りしたという話も聞いていますね。
神明神社と久保田家
坂上田村麻呂がずうーっと征伐して、ここも通ったと思うんですよ。そのとき建てたのが神明神社ですからね。その間の移り変わりはたぶんあると思いますよ。江戸になっても25戸の部落は原野みたいなところじゃなかったですかね。そこさ秋田から来て、湯口村の一角さ西晴山村という独立国を建てたんじゃないですかね。よそ者という非難を受けながら、ついには指導者になってしまったものだから。うぬぼれじゃないけど、少数民族だけれど、久保田は偉いなって思います。
6代の平造までは岩手県の長者番付さ載るくらい豪族だったんです。湯口を叩き上げた久保田という者を皆さんに忘れてもらいたくない。この一族は少ないんですけど、結構社会貢献していますよ。
【取材担当】似内、堀岡
先祖は秋田から湯口に来た。先祖のことなどを書いた『晴山家の絆』という本も著している。花巻市議会議員をつとめた。
久保田姓と稗貫氏
私は「久保田」という名字なんですけども、ここに根を下ろした久保田一族がありまして、私の本家なんです。ここは稗貫時代に本家が切り開いた村なんです。ここはもともとは、湯口村の語源になった湯口氏というのがいたんですよ。稗貫氏の重臣だったそうです。今の射撃場の対岸の方に舘があったそうです。ところが、稗貫氏は豊臣秀吉が小田原城攻めをしたときに行かなかった。行ったが、戦いが終わってから着いてしまったもんだから、稗貫氏はやられた。最後の当主は稗貫広忠で、矢沢で亡くなったそうですね。その後、秀吉は南部に稗貫氏の領域を与えたわけ。そしたら広忠の奥さんは自分の亭主が殺されたのにも関わらず、お家再興を願って南部さ後妻に入ったそうですよ。そんな悲しい物語がありますね。
安倍氏との関わり
ここは湯口村という村だった。そこさ我が先祖、久保田が秋田から入ってきたんですよ。秋田から入ってきた理由、そもそも久保田の前身はなんだろうと思って…。記録がないんですけど、あちこち繋ぎ合わせると出て来るんですよ。
安倍貞任っていたじゃないですか。貞任の親は頼時という人で、貞任、宗任、正任、家任、重任……とにかく子供がいっぱいいたそうです。貞任は最後に盛岡の厨川でバッサリやられた。その人の弟・家任が久保田と名乗っているんですよ。安倍一族の末裔だなと思ったんです。
屋号は「番所」
ここの家と高い杉の真ん中、ここから100メートルくらいのところに大本家があったそうです。私が小さい頃まで井戸があったんですよ。兄弟といわれる私の晴山家の本家は、宝龍権現さんがあったところの大きな屋敷なんですよね。それから血をわけた分家が11軒あるんです。その絆が今もしっかりと続いているんです。
昔は肝入りの家が役所だったんですよ。玄関入ると応接間。そこが「番所」という部屋だったんです。私の初代の先祖は久保田善助の弟なんですね。弟は兄貴のカバン持ちやって役所仕事をした。初代は善兵エという人なんですが、その人が分家になって、屋号が「番所」。いつも番所にいたから「番所」という屋号になっちゃったんですね。その他の方々は、ほとんど名前なんだよね。
名字帯刀を許された久保田善助
時の晴山家の3代目、久保田善助が元々、侍なもんだから南部藩と近づいたんだね。あっちからお金持って来たんだよ。持参金あったの。だから南部藩が困っていた時お金出して、改めて名字帯刀を許されたんですね。8代将軍吉宗の時代なんですけど。初代は1600年代ですからね。逃げてきて、ようやくここに居を構えた。そして帯刀するのに3代かかった。善助は名字帯刀許されて、湯口村の一角に25軒の村をたちあげたんですよ。それが西晴山村。安政5年の検地帳には西晴山村ってなっていますから、その前に西はついているんですよ。そういうわけで湯口村と晴山村と併せて、3代善助は肝入りをしたんですよ。何代か我が一族が湯口を治めたんですね。花巻まで行くのに、人の地所を渡ることなかったそうですよ。
湯口のスケート場
昭和45年の国体のクレー射撃場会場は、ただの原野でした。その後、市役所で、その用地を使ってスケート場を造ったことあるんですよ。私もスケートのインストラクターの免許とって教えたことあるよ。野外だからすごくお金がかかったんですよね。屋根をかけるお金を削ったために、(かえって)維持費が余計かかったんだね。夏は射撃場、冬はスケート場という利用の仕方だったんですね。あそこのスケート場は17年間ほどやりましたよ。みんなに愛されてね。石鳥谷にまだアリーナ出来ない頃だから、石鳥谷からも冬休みに子どもたちが来たね。
花巻電鉄鉛線の廃止と思い出
昔は市民の足っていえばバスだった。その前は電車だった。私は高等学校の3年間、花巻駅まで電車で通ったんですよ。(停車する)5分前に走っていくんですよ。ブーンって発車すると同時に飛び乗るんです。電車は良かったですよ。今も残していれば、なんぼ観光のために役立ったか。花巻温泉の方に行くのと鉛温泉に行くのと2本出てたんですよね。あれを今残してたったら相当役に立ったね。花巻温泉は会社が、そもそもあちらの社長さんだったから電車は良かったんですけどね、こちらさ来たのは、今、「市民の家」に(展示・設置して)ある馬面(うまづら)電車。広い電車より良かったんですよ。女の子が座っていれば、その前さ座る。そうすれば揺れたとき、膝がくっつく(笑)。立てなかったんです。重なるようにして乗ってね、満員でぶら下がって乗ったもんです。
鍋倉新田堰
今の北幹線なんですけど、昔は「鍋倉新田堰」って言ったんですよ。水の取り入れ口は、志戸平温泉の東側にある頭首工なんですね。そこから地面を掘って穴堰にする。その穴堰を掘るときの肝入りが、さっき言った善助なんですよ。殿様の至上命令で鍋倉を開田するために、豊沢川から水を引けということだったんですね。それを完成させたのが久保田善助。
神明神社なんですけどね、善助は穴の通水祈願のために神社を再建したんですよ。1738年に伊藤久慶という侍の工事屋さんと一緒になって頑張ったんですね。村をあげてやったのなんですけどね。
その前に一回掘った人がいるんですよ。煤孫ジヘイモリタダという人でね、その人が穴堰に詳しい人で、その人が先に掘っても水が通らなかったそうです。通らないために、祈願で若い女の子を裸馬さ上げてその辺りをぐるぐるぐるぐる引き回ししたそうですよ。そして満願の日、七日目に水がドーンと流れてきた。その馬も女の子も息命絶えてしまったというお話があるんです。これは花巻市民の命をまかなっているんですよ。当時の先輩たちは偉いね。きっと事故で亡くなった方もあるでしょうね。それから、藩から財源をお借りしたという話も聞いていますね。
神明神社と久保田家
坂上田村麻呂がずうーっと征伐して、ここも通ったと思うんですよ。そのとき建てたのが神明神社ですからね。その間の移り変わりはたぶんあると思いますよ。江戸になっても25戸の部落は原野みたいなところじゃなかったですかね。そこさ秋田から来て、湯口村の一角さ西晴山村という独立国を建てたんじゃないですかね。よそ者という非難を受けながら、ついには指導者になってしまったものだから。うぬぼれじゃないけど、少数民族だけれど、久保田は偉いなって思います。
6代の平造までは岩手県の長者番付さ載るくらい豪族だったんです。湯口を叩き上げた久保田という者を皆さんに忘れてもらいたくない。この一族は少ないんですけど、結構社会貢献していますよ。
【取材担当】似内、堀岡
最終更新日:
2016年11月11日
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