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2011年11月28日 の記録
阿部 茂巳さん【浮田地区】
投稿者:早川峻介
カテゴリー: 土地の人に聞け
花巻市文化財保護審議委員を務め、郷土の歴史に詳しい方です。東和町浮田地区の文化財等についてお話を伺いました。



まいりの仏

 私は学問的な、いわゆる歴史的な形に話をします。浮田で自慢できるのは、阿弥陀さんの掛け軸。大阪の西本願寺というところで配布したものなんです。東和町の浮田にある松崎阿弥陀堂というところ。県指定の文化財になっているんですよ。

 そういうものが「まいりの仏」(※1)という形で今も残っています。日本にあまりないものなんです。一番有名なのは石鳥谷の長善寺。浮田は、たまたま布教した地域の中に入って、たまたま残って、それが県から指定された。他にこういう軸物が10点も揃っているところはないから、県指定になったんでしょう。戦国時代のものとして大変貴重なものです。

 もともと浄土真宗、南無阿弥陀仏の仏教が盛んだったわけです。紫波に是信房(※2)の墓があるんです。南無阿弥陀仏というのは浄土真宗ですので、浄土真宗の系統の中でまた別ですけども、まいりの仏というのがあるんですよ。北上川以東が非常に盛んなんです。矢沢にもあるし。


※1 岩手県地方に見られる民間信仰。一族共有のおがみ仏(ほとんどが画像)を定められた日に拝む。

※2 浄土真宗の開祖・親鸞の高弟。



隠し念仏

 「隠し念仏」も、南無阿弥陀仏の浄土真宗系のものなんです。「隠し念仏」なんていうのは、隠れキリシタンなんかと同じように、昔はあまり口外してはならないことになっていたんですよ。藩からは禁令が出ているんです。それでも密かにやってきているんです。

 元祖は京都になるんですけども、和賀郡の岩崎から入ってきて、北上川の東の方に入って、密かに秘かに信仰しているんです。いわゆる混交している。

 この当時は、まだお寺さんがないから、死者に軸をかけてあの世に送ってやるとか、建前とかなんかの時にも、ぶら下げてやるとか、とにかくいろんなことになっているんですよ。江戸時代の檀家制度以前の仏教のあり方が、今でも色濃く残って、そういう行事をここではやっているんです。



特異な葬儀

 葬式は旦那寺であげてもらいますが、今でもそうなんですが、この地区なんかはこういうものの影響で、信者とかは夜、和尚さん(お寺)関係なく、「念仏申し」というのがあるんです。全く特異な葬式方法。近所の人たちが集まって、念仏を申し上げて、南無阿弥陀仏とやるんですね。お寺とは別に、死者の霊を慰める。そういうことを未だにやっているんです。それを和尚さんも分かっているんですよ。曹洞宗で葬儀をしてもらって、浄土真宗系の南無阿弥陀仏で拝んでもらって。そういう特殊な地区ですね。歴史的なことがあったからだということになります。東和地区の特徴として、そういうこともあるのだということで。



御番所の制札

 御番所の制札(せいさつ)というやつで[画像2枚目]。盛岡藩では18カ所に、他藩行くところに口止め番所がありました。その一つが浮田番所で。しかも、実物が残っているのはここだけです。浮田にあったものです。これなんかも浮田の宝でしょうね。

 倉沢というところに番所があった、平野部を見渡せるところに。仙台藩の梁川に行く道路、口内に行く道路。そういうところにあった制札で、たいへん貴重なものです。



訴状が残る最初の百姓一揆

 盛岡藩の百姓一揆の中で、訴状、いわゆる願文が残っている最初の百姓一揆が浮田村で起こっているんです。盛岡藩の百姓一揆の最初に載っています。全国でも正式な訴状が残っているのは、これが始まりです。江戸時代の初期の頃。慶安ですので。資料としては早いほう。訴状がちゃんと残っているので貴重ですね。



直目安の処分

 一揆の首謀者は最初のうちは処罰されていません。ずっと誰も処罰されていません。藩は認めていたんですよ。途中からだめだとなりましたけど。最初のうちは堂々と、訴状である目安を藩に直接訴えるわけですよ。ということはどういうことかというと、藩には地元を治める出張所の代官所があるわけです。普通はその代官所に訴える。そういうのを直目安(じきめやす)というんですが、それは認められていたんです。法に触れていない。犠牲者が最初は出ていないんです。ほかでもあんまり出ていないんですよ。浮田村は何回も百姓一揆をしていますが、犠牲者を1人も出していません。

 天保7年の大百姓一揆は、大迫では犠牲者が出たんですね。北笹間では天保8年に仙台藩に越境しますので、北笹間、上根子の人たちが4人斬首されている。小山田の人が引っ張られていますが、そんなに犠牲者が出ていない。義民として讃えられているが、讃えられるもんでもないんですよ。後で讃えようという動きがあるんですが、どうなんでしょうね。

 デモも強訴といってだめなんですが、それでもって引っ張られるということはなかったですね。仙台藩に越境するということ、無断で他藩に出ることは、罪を犯すことになりますので、とがめられるのでしょうね。天保7年でも浮田村が拠点になり、浮田村の世話役が全体の世話役になるんですが、おとがめなし。いまだにその家が残っています。そういう意味では単なるデモ的なものには、あまり重い処分はなかったみたいですね。



年貢取立ての実態

 貧しくて一揆は起こさないですよ。貧しい人が一揆を起こしますか? デモやストライキなんかやる会社は、貧乏な会社でなく良い会社でしょ。航空会社は景気がいいからやる。それと同じですよ。足腰立たなくなった時に百姓一揆はできません。余裕ないと百姓一揆はできないですよ。代官の不正なんかのことからの百姓一揆が多いですね。

 和賀・稗貫地区は百姓一揆の中心的なところですので。盛岡藩が多いといいますが、氷山の一角ですよ。まだまだたくさんありますよ。

 年貢は厳しいのは厳しいが、出せないものは出せない。困るのは百姓じゃなくて、米を食う武士たち。百姓はヒエやアワを食っていれば死なないですからね。だから取立てようとするんでしょうけど、取れるもんだら取ってみろというのが…。未納という形では、ずっと代々、続いていてくるわけですよ。豊作のときに何割やれと。

 実際にはそんなに出るわけない。隠したり出したり、せめぎ合いなんでしょうけど。実際に見ると、米はないわけでない。出すまいというという、そういう知恵が勝っています。米がなくても百姓たちは生きていける。原則として自分で作ったものが自分の口に入らないのが一番辛いですね。自分でつくったものが自分が食えないというのは理不尽ですよね。



浮田の産物

 この地区の産物は、江戸時代は干し柿が有名ですね。この地区は盛岡藩の一番南にあたりますので、田瀬とか倉沢とか砂子田とかは。この辺の地域は藩からも特産物という形で、藩から税金を掛けられようとしていたんです。やめてくれと、税金をかからないようにしてもらったんですが。今でいうと消費税です。それはなくしたんです。

 それと、猿ヶ石川のアユが有名ですね。ただ、大きな川にも当然、北上川にもアユは沢山いる。いわゆる簗を作るれるような中河川でないと。簗で大量に獲れるからこそ名産になるわけで。猿ヶ石川くらいの中河川だと簗造りがその当時可能であったと。東和地区の簗場は3カ所くらいありましたから。田瀬、舘迫、小通…。そういうところに簗場を造って、アユを大量に捕って名産にしたわけですね。特別にうまいわけではないんです。どこのアユだっておいしいんです。ただ大量に獲れるかどうかによって、特産とか名産になる。



【取材担当】堀岡、似内
最終更新日: 2017年03月10日
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