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2013年9月12日 の記録
佐々木 シゲさん【好地地区】
投稿者:ふるさと 遺産研究所
カテゴリー: 土地の人に聞け
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昭和3年生まれ。25歳の時に石鳥谷のそば屋「佐々木屋」に嫁いできました。ご自身の生い立ちと嫁いだ当時の話などをお聞きしました。



生い立ち

 生まれは花巻の四日町。馬検場のあたり。(学校は)花巻尋常小学校。場所は今の花巻小学校のところで、早坂をのぼって通いました。その後小学6年を卒業して、ここ(佐々木屋)さ来て子守りして。ここのおばあさんのお袋と私の母ときょうだいだったの。貧乏してご飯食べられないから、ここで奉公したの。



戦時中の話

 18歳で、挺身隊に行かなければならなかったが、事情しゃべったら行かなくてもいいと言われて。そして末広町にウメノ製作所ってあったんです。そこで3ヵ月くらい稼いだかな。鉄砲の弾を旋盤で作っていた。まだ戦争終わらなかったから。3ヵ月くらい勤めて、終戦になった。

 空襲の時は家さ居たったね。中学校の林の中に逃げて蚊帳を吊っていた。夏だったもん。花巻の上町に焼夷弾が投下され大火事になったのを山中で見ていた。「困ったな」って。上町ほとんどなくなった。

 戦後、末広町のツルタ印刷で稼いだ。バス会社の側だった。その後ツルタ印刷をやめて花巻温泉にいって仲居の仕事をしました。花巻温泉には3年間くらいいたかな。当時は進駐軍、千秋閣さいっぱい入ってたった。兵隊さんが家族で。何年くらいいたんだか・・・自然にいなくなった。

 (花巻温泉に)当時は別荘も七つくらいあって、1週間の長期滞在のお客もあった。当時の旅館は、松雲閣、千秋閣、花盛館、紅葉館、蓬萊館(大衆浴場)もあった。私は、最初花盛館だったけど、紅葉館が新しく出来て、そっちさ回されたった。



佐々木屋さんへの嫁入り

 (佐々木屋の)隣の隣りに鉄沓屋があって、そこのおじいさんが家に毎日来てお茶を飲んでて、そば屋のおじいさんが頼んだみたいだ。「嫁っこに来てけろ」って。「やんたやんた(いやだいやだ)」って言っても引っ張られて(笑)。25歳で(お嫁に)来て。

 勤め先の温泉に何回も来たの。お初さんと言う女中頭の人に一生懸命頼みさ行ったみたいだ。(お初さんから)「独りでいられないんだよ」とすすめられて、やんたかったけれども、(お嫁に)来た。

 (佐々木屋の)亡くなったじいちゃんは、目が見えなかったから。私なら小さい時から来ていたから覚えたから良いと思って、なんたって嫁に欲しかったらしい。そのことを知っていたから、いやだったのす。



そば屋での仕事について

 朝は6時前に起きて掃き掃除して。店は今より小さかった。そば打ちは、姑さんが朝早く起きて打っていた。そして亡くなってから私の旦那が作るようになって。今は息子になって。

 そば打ちは、そば粉に沸騰した湯をかけてこねるんです。水でやると切れてそばにならねの。煮え湯かけねば上手く行かないんだ。

 そば粉は秋田の。送ってくるの。元は金田一からとっていたけども、来るおばあさんが亡くなったっけ来なくなって。電車でおばあさんが背負ってくるんだっけ。ピンとしたおばあさんで。

 店は今と変わらず11時からはじめた。昔は1日に20人〜30人入ったえか。そして、競馬がある時は、盛岡競馬の時は水沢の人たちが20〜30人来て2階さ上がって、水沢競馬がある時は盛岡からの人たちが来て。バイパスが通るようになってからは、全然来なくなった。

 年越しの時は、午前2時あたりまでやってた。もとは12時までだったけど、次々に元朝参りの帰りにくるから開けていました。

 岡持ちでの出前もやったことあります。桜井さん(産婦人科)の辺りまで持って行きました。重たくてね。でも頼まれれば。患者さんがお見舞いに来た人たちさご馳走するんだっけもん。そうすると見舞いにきたお客さんは遠慮して、そば来ると逃げるんです。折角来たから逃げないでそば食べてって云うと、「そうっすか」と言って戻って食べる。

 昔はかけそば一杯30円でした。今は500円です。ラーメンとご飯類もやってました。



昔の石鳥谷の町並み

 鉄沓屋の隣りは、花屋、その次は団子だの今川焼だの。今は無くなって床屋さん。文化(タクシー)さんは昔からだよ。今の洗濯やのところに、消防小屋あったったの。今の文化タクシーの隣のあたりに火の見やぐらがあって、そこに半鐘があってね。昔は火事の時は上ってみたこともある。



【取材担当】鹿川、浅沼、伊藤
最終更新日: 2017年03月10日
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