戻る
2013年7月19日 の記録
畠山 英一さん【大瀬川地区】
投稿者:早川峻介
カテゴリー: 土地の人に聞け
拡大してみる
昭和7年生まれ。石鳥谷町の大瀬川地区にある天満宮神社の相談役をしている。子どもの頃の思い出や、天満宮についてを中心にお話を伺った。



三又医院のつけ払いと宴会

 三又医院は、私が子どもの頃からあって、昭和30何年ごろ、好地(石鳥谷)に移って、今はなくなってしまった。(実家の)すぐ隣りに開業していた。だから、おらは腹痛いば、夜行っても、注射してもらった。

 そのころは健康保険もなかった。お金も(診察した日に)払わなかった。払わないといっても、向こう(医院)で帳面さ、つけておいて、12月8日、それ(診察代のつけ)を皆さんから集めた。それはお祭りみたいなものだった。(支払う人たちが)みんな集まって、ご馳走してなす。

 当時は、(三又医院は)大きな医院だった。住まいに15畳という大きな広間があって。その頃、15畳なんて部屋がある屋敷はなかったもなす。一晩中、酒盛りしたもんだ。1年分を一回に(清算した)。みんなちゃんと、つけておいてたんだ。この辺の人たちは、米を売らねば(お金)なかったんだ。金なくて、米を持ってくる人もあったなす。



北寺林の獣医

 農家どっこにも馬いたもんだから、馬の医者さんも、そっちの方(北寺林)にあってなす。そこでもやっぱり1年分一回にとる(精算する)ようなかたちになっていた。北寺林の獣医さん、今はいなくなった。息子さんは、人のほうの医者さんであった。おれ、小学校を終わったころ開業している。急性肺炎をやって、頼んで診てもらった。屋敷(蔵や家)はそのままある。その後のことはわからない。



大瀬川天満宮にまつわること

 今は、別当ということは、神社庁の法律によってなくなったんだって。今は相談役という役で。だども、管理は任せられてやっている。おじいさんから、ここの屋敷に神社があったった、というのは聞いてらったのす。

 大瀬川には上天神、中天神、下天神と3つあるわけだ。今も上天神、中天神も、自分の氏神さまにして拝んでいるどもなす、昔は神信仰づのをみんなしてやったんだおなす。



天満宮の氏子

 家は「梨の木」つうところのかまど(分家)。ここはかまどが何人かある。昔はみんなが神様を信仰していたから寄付も貰えたども、今はなかなか。氏子も今も結構あるども、創価学会とか、そういう人たちは抜けてしまった。今は氏子は180人いるべかな。新興宗教でない人たちは、まず氏子になってもらって。お金いただかなければ、神社を運営していげねがらす。



拝んでもらって治した

 おらワラス(子ども)の頃、そこの医者さも行ったし、拝んでける人があって、そこさ行って、まず腹痛いとか何かって拝んでもらえば、祟られてたとか何とかだって、そういうのを本当に信仰したもんだっけ。何カ所かにあったんだ。結構流行ったもんだ。病院さ行っても治らないの、そこさ行って治ったなんていう話もあったんだ。



神社の行事と運営

 年越し祭(12月25日)つのあった。そして2月11日には春祈祷といって、一年間無事に暮らせるように祈祷する。昔は、そこの長谷堂の人が、あっちこっちの家さ来て、春祈祷で拝んで、何か柱さ、お札を貼っていくんだっけな。その人もなくなって、今は神社で。

 そして4月29日は春祭り。神社の総代の人たちが拝んで。お札は氏子さんにまわして、一年間無事に暮らせるように。

 本当は、ここの天満宮は8月25日とかだったんだずども、今は山衹神社のかまどみたいなものなので、山衹神社の祭りが、9月12日だから、一緒にお祭りしている。

 新嘗祭とかは、向こう(山衹神社)の方だけで拝むなす。こっちさは来ない。いろいろな経費は向こうから金出してもらって、修理する。だいたい間に合うくらいの金を氏子さ割って、それをお願いして貰っている。特別な経費は別にもらわねばないのさ。神社の木を切るとかいうときは、あっちの許可を得なければならない。



祭りの今昔

 祭りのときは、御通り(神輿を送る行列)がある。神輿がある。北寺では神輿はない。御通りさ、人出はらなければならないから忙しい。昔は神輿を担いだが、今は車に乗せて歩く。お通りの出発は山衹神社で、ここ「天満宮」に来て、お昼を食べて、又帰る。結構な距離だが、昔は担いだものだ。

 昔は徴兵検査のその人たち、二十歳ぐらいの人たちが担いだ。重たいものだから、若くないと担げなかった。馬に乗った人もあった。今は神輿を車に乗せている。車なのでよくなった。そしてお通りが通るときは、昔は米だったども、今は千円か五百円をあげている。秋の祭りは、昔は結構人が集まって、ここでも店やさんが出てきて、栄えたものだったが、今は何もない。あとは部落の「手踊り」とかもあったのす。

子どものころは12月25日が天満宮の年越し祭で、そのとき、“天満宮”と書いて天満宮に貼っておけば、字が上手になるといわれ、結構やったものだ。



杜氏をしていた頃

 おれは小さい頃から、あんこもちが大好き。おれのお爺さんは酒飲みだったし、親父も酒飲みだったども、おれは酒はあまり体質的に飲めないのす。でも、稼がねばなくて、酒屋さ行って稼いだ。(造り酒屋を)何カ所か歩いた(働いた)。長く杜氏をしたのは、茨城県水戸市の明利酒類(めいりしゅるい)というところ。茨城県では大きい酒屋だった。そこで20年間、杜氏をしたかな。

 おれが行った酒屋で、春に蔵開きといって、たくさん人を集めて行事をやるんだ。その時に南部の酒屋歌をやれ(歌え)と言われて、(自分は)歌が下手だが、やった事もあった。



戦時中と軍馬の話

 兵隊検査はなかった。2級うえの人たちまで兵士に志願すれば行ったし、兵隊検査は20歳か21歳だった。甲種合格者の人は最初に連れて行かれて、だんだんには乙種合格とかも連れて行かれた。馬まで連れて行った。

 支那事変の時は車ながったんでながえんか(車が不足していたのではないだろうか)。馬で大砲なんかを運んだらしい、馬にも召集令状がかかった。馬もちゃんと役場に(登録を)出してしていたので、どこにどんな馬がいるか、わかっていた。いい馬は高く売れたので、軍馬に出したくて、みんなは手入れをよくした。

 兵士は帰ってこない人もあった。帰ってきた人もあった。馬は行ったきりだった。やせ馬は連れて行かなかった。当時、金持ちの家では2頭、3頭と馬を飼っていた。北寺の獣医さんも結構忙しかったと思う。往診に歩いたんだ。今は馬を飼っている人は大瀬川にはいないかもしれないな。北寺にも松林寺にもいないな。今、馬を飼っている人は、チャグチャグ馬っ子や馬力大会に出したくて、道楽で飼っているのだと思う。馬を1年中飼っているということは、大変な経費なんだ。



【取材担当】鹿川、浅沼、高橋
最終更新日: 2017年05月12日
この記事へのコメント