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2013年6月21日 の記録
山田 悦郎さん【大迫地区】
投稿者:早川峻介
カテゴリー: 土地の人に聞け
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太平洋戦争末期、広島県江田島にある海軍通信学校教員在職のとき、原爆のキノコ雲を目撃した。復員後、大迫役場職員として、後に特産品となるワインの生産と普及に尽力する。



太平洋戦争、志願兵として南方へ

 (海軍には)約6年おりました。志願兵で南方のラバウルからブーゲンビル。南方では、食い物で一番苦労しましたね。朝昼晩のお汁が粉末になっている粉味噌でした。私は八艦隊司令部にいたったもんだから、司令官が移動するたびに荷物を船か何かで運んでね。司令官のそばに幕舎を造って、そこに缶詰とか、いろんなものを積んでおいたんですよ。

 途中で内地に行きましたったから、その後のことは分かりません。たぶんブーゲンビルで、みんな死んだんじゃないかな。



原爆投下を江田島で目撃、そして終戦

 昭和18年のまだ戦争が勝っているときに、学校に来て勉強しろという命令が来て、内地に飛行機で帰ってきたったんですよ。昭和18年の春にね。学校終わって、戻る船もないものだから、どこかの部隊に行けっていうことで、200人くらいいた高等科練習生のうち、私1人だけ兵学校の教員になれって言われ、広島県の江田島に派遣されたんですよ。江田島で終戦になりました。

 広島の原爆を見てきましたよ。爆心地から江田島までは、せいぜい3里くらいなもんです。目の前でキノコ雲。私は通信科の教員だったから、通信学校の通信科の部屋に入る廊下を歩いている時に、ピカ、ドンっていうのがきて、「伏せ!」って号令かけて生徒たち伏せさせて。窓ガラスがほとんど壊れました。幸い怪我はありませんでしたけどね。被爆にはなりませんでした。そういう経験もしてきましたよ。

 通信科だったから外電を傍受して、ポツダム宣言の受諾は、10日くらい前には分かっていましたからね。いつ降伏するべって話だったからね。兵舎の外に全員集まれということで、集まって玉音放送を聴きました。



大迫のワインづくり、最初の頃

 エーデルワイン工場は、大迫農協の空いている小屋を借りて始めたったんですよ。昭和26年頃かな。ブドウをつぶしたりして絞ったやつを毎晩飲んでたもんだ。そのとき私、役場職員で大迫農協の理事もしてたからね。私が25か26歳の時だな。

 ブドウ栽培し始めたのは、昭和23年頃からかな。国分謙吉知事(初の民選知事・昭和22年~昭和30年在任)になってから、大迫に来てみて、「何かなかべか(何かないだろうか)」と言った。石灰岩の層があるから、ブドウが育つんじゃないかということで、知事さんから100本だかのぶどうの苗を頂戴して、各農家に配って植えたんですよ。

 町内の一角を町で借り、ぶどう団地ということにし、県から職員派遣してもらって、そこで研究普及したのが、今のブドウになっているわけです。高台にあがれば、すぐに国分謙吉さんの銅像がありますね。あのあたり一帯がブドウ園なんですよ。



実ったブドウを各地に配りPR

 ブドウが成り始めて、町長さんに言われて、毎年一番美味しいブドウをトラックに積んで、知事はじめ各部長の家さ配ったんですよ。各官舎に歩いて。県庁のぶどうに関係のある課の課長以上さ。名前つけて地図つくって、毎年トラックで配ったったんです。10年以上続けたな。

 花巻では、その当時の地方事務所とかさ配って。工場っていう名前が付く前の前の全くのブドウ試験場(笑)。初めてブドウを作ったもんですから、売れないクズが沢山出ました。

 そこで職員の池田さんが仙台まで行って、ブドウ酒製造の免許とりました。池田さんは水道の仕事をしながら、ブドウ酒を農協の倉庫の一部を借りて造ったったんですよ。私が毎晩出来具合を見さ行ったわけよ。「山田くん、またぶどう酒飲みさ行ったな」なんて(笑)。それが今のエーデルワインになったの。

 国分さんが知事をやっているあたりの町長さんは、八重樫忠八町長(昭和24年~28年在任)。昭和30年に合併する前が八重樫さんで、合併したあとは高橋繁造町長(合併以前の昭和28年~29年と合併後にも在任)。



早池峰山に避難小屋を建設

 早池峰山の頂上に避難小屋を作ったったんですよ。それを造ったのは昭和40年頃かな。消防団にお願いして、下から頂上にセメントやら木材やらを団員全員で1週間ばりかかって、毎日運んだんですよ。

200人くらいの消防団員で1週間くらいかかりましたからね。セメントでもなんでも、みんな半分に分けて軽くして背負ったったんですよ。戸板、木材、バラス、セメント、砂、そいつをみんなで運んだんですよ。

 うすゆき山荘という小屋が途中にあってね、私たち係なもんだから終わってから、5人ばり、そこさ泊まってたんですよ。そこで荷の配分の役をしていたんですよ。そこであんまり酒を飲んだので、ジープで帰る時に、途中でジープの後ろのドアが開かって、私が落ちて怪我したったんですよ。鼻をざっくり割って。即入院したったんですよ。とにかく昼の酒はダメだなす(笑)。



大迫のタバコ栽培、今昔

 10年くらい前までは、みんなタバコやってたんでねがえがな。今はほとんどありませんね。政府で買わなくなったから。前はタバコ議員といわれた代議士の志賀健次郎さんとか、そういう人をしょっちゅう呼んで、タバコの値上げ運動をしたったんですね。南部タバコ組合連合会が大迫町にあったんだおね。

 近郷の遠野、綾織、宮守、佐比内辺りから、葉っぱを大迫の専売局へ運んだんだおん。ちょうど、おせり(牛馬などの市)の時あたりに葉タバコの検査がありましてね。賑やかだったんですよ、昔は(笑)。今は残念ながら面影はありませんね。かろうじて残っているのは、タバコ博物館とタバコ神社。愛宕神社の一角にタバコ神社というのを志賀健次郎さんに造ってもらって。その神社はありますが、お参りする人も博物館に行く人も、今はほとんどありませんね。やっぱり時代は変わった。昔は一家そろって、タバコの葉っぱを夜に一枚干すというと何円っていう、のし賃まで貰ってたんですね。



林業の盛衰

 昭和は良がしたなす。坑道をつくるのに細い松が必要だとか、所得倍増計画だかで、家を新しくしたり、改造したりする人があったから、どんな木でも売れたのす。今はご存知の通り全く売れませんからね。ただ間抜きして倒し、そのままで終わりです。

 以前は製材所が畠製材、浅沼製材所、池田製材の3軒もあったったんですよ。現在、残っているのは、川原町の池田製材だけです。



愛宕神社の祭りとあんどん祭り

 愛宕さん(愛宕神社)の祭りでは、立派なお通りをしていましたね。神輿渡御ね。200人以上行列で歩いたんじゃないかな。そのうち旗を持ったり、太鼓を叩いたりする人が少なくなって、盛岡に住んでいる長男を呼ばって、天狗の面をかぶらせて、行列の先頭を歩かせたりしましたよ。今は人出がなくなって、愛宕神社の祭りに山車は出ません。

 あんどん祭りは、各町から4台出ますね。天保飢饉の霊を慰めるために。昔は角行灯のようなものを造って、何人かで持って歩いていたそうですが、それがだんだん大八車を造るようになって、その上に大きな行灯を造って、載せてみんなで引っ張ったというのでがすっけ。

 愛宕神社の祭りにも昔は山車はあったのですが、あんどん山車と同じ車を使って、盛岡式のような(感じで開催しました)。盛岡の方が(祭りの開催時期が)一足早いものだから、盛岡の祭りで使った上の方だけをそっくり買ってきて。こっちの山車に載っけて、愛宕神社のときにもやったんですよ。お盆の山車を出して、せいぜい半月か1カ月のものだから忙しくてね。とってもわがね(とても無理だ)からって、今はあんどん山車だけにしました。人もいなくなったし。100人くらいの人数は必要だからね。愛宕神社のお通りには山車はつけねと。    



【取材担当】浅沼、酒勾
最終更新日: 2017年06月12日
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