戻る
2013年9月17日 の記録
伊藤松雄さん・玲子さん【新堀地区】
投稿者:早川峻介
カテゴリー: 土地の人に聞け
拡大してみる
 伊藤松雄さんは、昭和7年に北海道で生まれ、大学で岩手に来ました。興隆期の谷村新興製作所に勤務し、創業者であり、後に参議院議員となる谷村貞治に仕えました。奥さんの玲子さんは、昭和10年生まれ。教師をしていました。玲子さんには、初任地・久慈のことなど、教諭時代の思い出を語っていただきました。



【伊藤松雄さん】

戦前戦中の生活

 私も北海道では農業なんですよ。小学校の時は、まだ戦時中でしたから、鎌を持ったり、草削りを持ったり。あの頃は援農に行くという表現でした。小学校6年生あたりから作業に出るんですね。毎日です。麦畑、豆畑。そういう仕事をやりました。小学校だから、朝から午前中で帰ってきたかもしれないけど。その頃は麦ご飯ですね。

 終戦間際に飛行機の燃料を取るために、松の葉っぱを集めたんです。三尺の直径一尺。そういう基準。みんなで山に行くと、藤のつる、ブドウのつるを切り、それでブランコを作るんです。それが面白くてよくやりました。

 針葉樹の葉っぱだけを取って、それを大きな釜に入れて、工場みたいなのをつくってね。そこで蒸気を出して、葉っぱから出る蒸留水を貯めて。見てるとポコンポコンと油が浮き上がってくるのは分かるんですよ。何か瓶のような物に入っているのを見ましたけど。なんと汚い色をして、それをどこかに持って行って、精製したのでないでしょうかね。



谷村貞治さんは技術屋

 電電公社に出すテレックスですから100パーセンいいものをと…。実際に動かしていて、どうもおかしい。ときどき間違う機械の特性みたいなのがあるんですよ。谷村貞治が黙って見て、「これはおかしいぞ」。夜じゅう見ていて、「あそこを調べてみろと」とか、よく言う人でした。技術屋としての一面は強かったですね。

 部下に対しても、ただデタラメに機械を良くしろと言うのではなく、「あそこはおかしい」と言う。それなりに調べると、なるほどと。スプリング1本とっても、「ちょっと弱くし。その方が動きがいいんだぞ」というような話をしてました。



時代に乗り遅れる

 電電公社にテレックスがありました。ずっと出てましたけれど、昭和45年頃から(出荷量が)完全に落ちてきましたね。ファックスとかインターネット、パソコンというのも、その頃から出てきました。新興はどっちかというと、メカニズムの方が強かったんですね。機械的な部分の方が。ソフトとかプログラムは一歩遅れてましたね。

 (ファクシミリの研究に)私は直接手を掛けていませんでしたが、いろいろな面ではやっていました。今のインクのプリンタ、それからリボンでプリンタが動いていて活字を出す、そういうのをやっていました。それは研究段階で、最後までいけなかったんじゃないかと思いますね。



黒ビルについて

 あの(黒ビルの)建物(があった場所)は、お堀だったんですね。私が入った頃はお堀にビルを建てるための(工事をしていた)。仕事をしていると、コンクリの杭打ち(の音)がうるさいですよね。何本も電柱のようなのを打ち込んで、その上に建てましたからね。

 私が入ってから二つ、三つくらい建てたんですね。われわれは一番高いところに建てた、(それを)「黒ビル」と言ったんです。真っ黒なビルが最後だったですけれど。本来ああいう鉄骨の建物は錆が出て、それで値打ちが上がるんだそうですね。ところが谷村貞治は「錆が出てきた。見たくない」と黒く塗らせたって言っていました(笑)。あの建物、お客さんが来ても恥ずかしくない立派な建物でしたからね。今はどうなっているのか。やっぱり寂しいですよね。〔※建物はH28年に解体されました〕

 社長室は黒ビルの奥。私も一度だけ入りましたね。大きいです。黒ビルで、私が電電公社のお客さんと一緒に打ち合わせをやっていると、(谷村社長が)ドアをバンと開けて入ってきて、一番上の席にでんと黙って座って。ああいうときは困るんですよね。話が途中で、ちょっと行き詰まるんですよ。でも、そうやってお客さんを接待してくれたっていうのはやっぱりありがたいですね。



東南アジアからの研修者

 ビルマ、フィリピン……。私もタイの電電公社に行ったんです。そこに新興で造った機械が何百台と入っているんですね。ワーっと中に入ると頭が痛くなるような音。でも、ああして外国で使ってもらっているのは、ありがたいですよね。向こうからも何回か新興に講習に来ているわけです。その人と一緒にぐるっと(視察で)回ったりするのは、やっぱりありがたいですよ。



参議院立候補のこと

 参議院選挙ときに、石鳥谷の社会福祉協議会かな。会議室みたいなところを借りて、選挙の演説をしたわけですよ。例によって、とつとつと話をするわけです。聞いている若い人がヤジを飛ばす。そしたら、「馬鹿野郎!お前たち、そんなことばかり言っているから貧乏しているんだ」と。そういうことをズバっと言える人はいないと思うんですね。ヤジの内容の記憶はないですけどね。面白いですよ。谷村貞治も貧乏したけれども、そういうことを乗り越えてきたという自信があるわけですよね。何を言われたって、「何言っているか」って。



谷村貞治をしのぶ会と生誕の地

 平成9年に「谷村貞治をしのぶ会」をつくりました。これも面白い。谷村貞治と宮沢賢治が生まれた年が同じだという。「宮沢賢治は、花巻がいろいろと行事をやっているのに、私たちの地元出身の谷村貞治は何もないのか」とそういう話をした。

 何かの集まりだったかと思うのですけど、藤原さんと佐々木さんと私と3人で「何かやらないか」って話をしたんですよ。ちょうど、私も新堀の公民館長をしてました。そこで(谷村貞治の)生誕の地は、どこなんだと。谷村貞治の先祖のことを役場で調べたけど、分かるのは何番のイ、ロ、ハ……。今の地割番地と全然合わないんですよ。それで一体どうするって。

 そしたら藤原さんは、谷村貞治、奥さんと一緒に…お寺が新仙寺なんですね。新仙寺に行って、お盆の帰りによくうちの所に寄って。あの道路の向こうの方向いて小便しながら、「ここに生まれて、ここにうちがあったんだよ」。そういう話をしていた。あの辺にも蔵がいくつかあったようですね。藤原さんはそのことが頭にこびりついていると。あの人が言ったんだから、ここに間違いないんだ。



谷村貞治記念碑を建立

 あそこは農地だったんですよ。これを変更するのは農業委員会の認可が必要。農業委員会は出された資料をその年ではなく、2年か3年まとめてやる。谷村貞治の生誕の地をつくるなんてもってのほかだと(笑)。ところが1時間近く電話で町長に談判ですよ。最後は、何日までに絶対やってくれと。生誕の記念行事をそこでやろうとした。そのためには年度内に完成させろと。よくまとまったなと思いました。金を集めるのも苦労しましたよ。

 花巻から松園に行く近くに老健施設があるんですよ。あの施設のところに石屋の石がごろごろと置いてあったんですね。その前にあった石を見てね…。瀬川石屋さんから、どれにするって言われて。私は一発で、これにすると決めたんです。谷村貞治の風格を考えますとね。重さが16トン。地元に来てから、ここに据え付けてから削り出して……そうしないと、どんな形で収まるか分からないと言うんですよ。このコンクリもね、さすがプロだと思いました。下の方にコンクリの杭を打つんですよ。松の木だったかな。全部埋めて乾いたら砂利を載せて、その上に、もう一度、コンクリの舗装をやって。ちょうど載っかるところを削って、舗装クレーン車で。重さが16トンというのは岩手県内で一番大きいと。これ以上は上がらないと言うんですよ。形は最高だと思いました。





【伊藤玲子さん】

谷村さんは祖父の実家

 谷村貞治さんは私の祖父の実家、藤原さんのところで育った時期もあるんですよ。なかなか食べるのが大変で(生活は苦しそうだった)。谷村さんのところって、きょうだい、みんな大きくて。花高(現花巻北高校)で一番体格の持ち主でした。縦横ともに立派な体格の人たちだった。



最初の赴任地は「あまちゃん」の久慈市

 教師として最初(の赴任地)は、今、「あまちゃん」で脚光浴びている久慈の高校でした。ちょうど清水さんという南部潜りの大先生がいまして、その方の働きで潜水科ができたのですよ。その当時は久慈高校種市分校。(朝ドラ「あまちゃん」は概ね)事実に基づいてますね。清水さんは鉄瓶みたいな顔しているので、(潜水ヘルメットを)かぶるとぴったし(笑)。海に潜って練習していました。プールがなかったから。



思い出の焼きウニ

(好きな食べ物は)生ウニじゃなく、焼きウニ。北限の海女の小袖海岸よりも八木港(のウニがいい)。侍浜の次が久慈で、もっと八戸寄りの八木港がウニが揚がるところです。むいて桶に入れて売りに来る。量り売りで。どんぶりで計ってなんぼ。

 下宿で間借りしていたところは畳屋さんでしたが、そこの奥さんは、生ウニに卵を落として、ホタテの大きな殻を七輪に載せて、ウニに生卵を落として、毎日のように朝ご飯を食べてました。年をとっても髪はつやつやで。やっぱり体にいいものなんだなって。ウニはおいしですよ。私は食べれませんでしたよ。あの当時初任給7800円。そのうち3000円を下宿に払って、奨学資金も返さなくてならないし。だってガスもないし、木炭で。冬は凍ったご飯にお湯をかけて、納豆かけて、それだけで。何しろ昼間も学校、夜も学校でしたから、買い物している暇はなかったですから。



県教育センター移転に助言

 久慈高校から花巻中学校に11年お世話になって、それから教育センター(に転勤)。その当時は、(岩手県教育センターは)盛岡市の高松の池近くにありました。その頃、石鳥谷から行っていた鎌田さんという方が教育委員会にいらして、電車の中で、「(盛岡市高松の)教育センターが手狭になった。危険建物にもなったので、どこさか移らなければならないけど、どこがいいと思う?」って聞かれたんですよ。私はとっさに「そりゃ、花巻がいいんでがす」と言ったんですよ……。それが本当になったんですよ。「宿泊のところに温泉も引けるし、高松よりいいでしょう」と言ったんです。…それがものになって。「鎌田さんから、いいアイデアもらった」と言われました(笑)。



【取材担当】鹿川、高橋
最終更新日: 2017年07月17日
この記事へのコメント