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2013年11月18日 の記録
多田 光男さん【好地地区】
投稿者:ふるさと 遺産研究所
カテゴリー: 土地の人に聞け
 昭和8年に花巻の四日町で生まれる。花巻の市街地にあった書店と電気機器製造会社に勤めた。


生まれ

 生まれは花巻の四日町。昔は四日町というと、国道沿い。その次の通りがあって一番最後に稲荷神社があって、広隆寺があって。そこを四日町裏と言っていた。ちょうど馬検場に近い。今の桜台小(まえの旧制花巻中・花巻北高)に近いその付近で生まれて育った。順覚寺、広隆寺の並びの家だった。水害の記憶はしっかりある。キャサリン台風(1947年)のときは敷居まで(水が)きて、柱時計だけがよくて、あとはぜんぶだめだった。台風が来れば、瀬川の堤防はすぐ決壊した。



子供の頃の思い出

 子供の頃は花巻小は50人クラスが10組もあった。組が違っても町の子たちとは仲が良かった。あのころ四日町、今のヨーカ堂から北の方と、花巻といつも反目しあってた。私が町の子と話をしていると・子供って面白いもんだ。遊んでいてもガキ大将がパーッとくる。なにかいじめがあったのかと。学校の中ですよ。そのくらい四日町方面と、こっち(旧花巻町)の人と何かとけんかをしたものです。みんな互いに守ってくれた。体が小さかったこともあってか、話をしていてもいじめられているように見えるせいかよくかばってもらった。

 遊びといえば、日居城野と現桜台小の後ろ(北側)と線路のところ山でね。ターザンごっことか戦争ごっこ。戦争ごっこするときカーバイトで、ドン、ドンと音をだしたりして遊んだ。スケートをするといって夜の8時ころまで道路で遊んだもんだ。あの頃は車といったって、たまにバスやタクシー、トラックが通るぐらい。ほとんど馬そりだった。荷馬車とか、だから道路で遊んだ。バスも木炭車で、スケートをはいて、そこの下につかまって、バスが発車すれば、くっついていった。スピードがついてくれば手をはなしても、ずぅーっとすべって。

 あの頃は学徒動員で、俺たちは1番上で、下級生を守らなければならないということで、防空壕を作ったり、避難訓練したり、学校に居たときもそんなことばかりで勉強などはほとんど。ただ私も今の北高(昔の花巻中)に行きたいと思い、居残り勉強をした。でも父親が亡くなって、稼がなければだめだから、行かないでしまった。
 


上町にあった書店「誠山房」で働く

 わたしのすぐ上の姉が、石鳥谷の佐々木屋という蕎麦屋に嫁に来た。その姉と誠山房の社長と同級生だった。(姉が同級生ということで)店を手伝わないかということで。本屋に行ったら、本を見たり、勉強できるかなと軽い気持ちで行った。誠山房ができたのは、昭和25年の暮れ。声がかかったのは26年の2月ころだったかな。
 
 誠山房にいって手伝っているうちに、26年の暮ごろに、ただ店番ばかりしているわけにもいかないんだから、新興製作所とか厚生病院、合同庁舎に行って本の注文を取ってみないか、ということで新興製作所に行くようになった。



新興製作所社長・谷村貞治氏との出会い

 そのうちに谷村貞治氏から本の注文をとるようになった。朝、本を納めに行くと谷村の社長が必ず出てきて、現金払いで、領収書をきったりした。たまに誠山房が休みの時、姉のところに月に1回か2回バスで佐々木屋に行くと、谷村の社長が蕎麦を食べて昼寝をしているんですよ。そこで会っても挨拶をする程度だったが、しょっちゅう本を持って行っているから、「おい、お前俺のところに来て稼がないか」と言われたのが27年の4月6日だった。考えた末に谷村にお世話になることに決めた。



谷村新興の新入社員時代

 その時は新しく5人が入った。うちら若い3人は県南のある工場に配属された。18歳の時でした。

 仕事の中身は、ネジを作る工場だった。上の方でベルトがあって、その機械から、そこからベルトで、1台1台、旋盤につないであり、スライドささるようになっていた。上は大きなモーターでね。おっかない音がするとこで、「ここで俺は何を働くんだ?」って(笑)。皆さんがネジを作るのをしばらく見てから、やってみろといわれておっかなびっくり機械を動かした。刃物の砥ぎ方も知らない。一通り教えるからといわれて。みんな親切だったんですね。なんぼわかなくても、3~4日経つうちに出来るようになるもんです。だんだんに慣れてくると、小さいネジから大きいネジになったり、そこで見習いのような格好で働いた。

 先輩に「君たちは1番下なんだから、まず、みんなにお昼時に手洗いの湯を汲んでくる。皆が手を洗っているうちにお茶の用意をして。」と新人教育のようなことを指導された。冬になれば、亜炭を大きな小屋からを運んで、燃やす。朝30分前には来て、人が来る前に焚いておいて、とみんなに教えてもらって。いじめもなかったし、失敗しても「そんなものだ」と言ってくれた。



試作課時代

 3年ぐらいして慣れてきてから、みんなそれぞれの職場に配属された。そして私は試作課というところに回された。そこは新製品を作るところだったので、研究室の人たちとか技術部の人たちとこれをこう作ってくれと。ネジばかりでなく、旋盤、ボール盤やいろんな機械を1台ぐらいずつそこにあって、プレスとかは頼んで作ってもらうんだけど、まずは手作りで、鉄板を1枚1枚曲げたりして作る職場に移された。当時はいろんなプリンターの新製品を作るところで、そこに40歳ぐらいまでいた。



量産時代へ

 その後、第1工場という今のバイパスのところさ丸ビルがあったんですよ。2階に移った。初めて月に何百台という量産工場で働いた。500台700台となると大変な作業だった。残業もしなければ当然納められないし、だんだんには罰金も取られるようになった。電電公社の方から。1日遅れればあのころ何十万円という罰金。一緒に働いている部下に残業を頼まなければいけない。私は3級から、試作課にいたときには2級班長になっていたが、その時は1級班長にさせられていた。手当ては今の金でいえば7~8万もらったけど、それを家に入れないで、その金を使って皆さんの融和を図るようにした。協力しなかった人も1時間なら残業してくれるとかだんだんにそういうふうになって職場がいい雰囲気だった。



再び誠山房へ

 谷村貞治氏が今度コーラ作るからそこに行かないかといわれたけど断った。貞治氏が亡くなった後は奥さんが社長になった。その後10年ぐらいでだんだん会社の業績も悪くなってきて、電電公社とか、そういうところから来ていた人たちが、さあ~っと帰ったんですよ。なんかおかしいなと思って、これは会社がだめになるところだなという気がした。

 自分は子供らもあるし、第2の人生を考えなければならないので結局辞めた。そして自動車免許をとって誠山房に入った。前にも働いたことがあり、大雑把なことはわかるし、今度は外交の方もやってもらいたいとのことで学校関係を歩いた。学校、谷村、花巻市役所と郵便局の担当になった。

 新興時代は人との付き合いは縦だったが、誠山房では横の付き合いに変わった。給料は安かったが、人を覚える点では誠山房は良かった。ただ、仕事場やお金の面では、谷村の方が良かった。



誠山房での仕事

 誠山房の仕事は、雑誌の配達をしながら本の注文をとる。私は百科事典などはやらなかった。自分が入る前はよく売れたそうです。私は美術とかレコードのクラシックとか。掛け軸とか絵画、もちろん複製なんだけど。美術年鑑などにのっているようなのを学校の先生とかに売った。押し売りはしたことがないけど、こういうのもやっていますよと。講談社や学研の人が来れば、その人たちと一緒にいって見せたり。昔はお雛様もやっていた。五月人形も。

 1番売れたのは、最初に出した『早池峰の花』っていう写真集。1冊25,000円だった。5,000円でも高いのに大迫の人たちは買ってくれた。昭和47~8年頃、写真集としては1番先に出た高い本だった。それが売れる売れる。大迫に20何年行った。随分大迫の人たちには世話になったったな。



今までで食べた中で一番美味しかった食べ物〜卵の思い出〜

 美味しいと思ったのは・・・こんなことを言ったら笑われるかもしれないが、父親は酉年、母親も一回り違いで酉年、私が酉年なんです。昔の人は、酉年3羽いるとバタバタいくという話があって、鳥を食べたり、卵を食べたりはしない。

 どうしても卵を食べたくてね。父親が亡くなった時、お袋に、「なんたって卵食べでか?」って言われて。「1回くらい食べてみたいもんだな」って。「そしたらちょっと一緒にあべ[来い]。」って言われて、稲荷さんさ行くところに脇道があったのさ。後ろの方さ、ちょっとしたお宮っこがあってね、そこさいっつも卵があがっているんですよ。そうしたらお袋が拝むんだっけ、「何とか一個ください」って(笑)一個盗んだんですよ(笑)。

 家さ来て、拝んで来たからまず食べてみろって言われて・・・生の卵の美味しいこと。とろ〜っとしてね。割って、茶碗にいれて醤油をたらして、そのまま飲んだ。そのとき卵の匂いがするんだっけもんね。「ハアーこんなに美味しいものだったんだな。」その味が忘れられなかった。今はふんだんに食べているんだけど今はあまり匂いはしなくなった。



感銘を受けた言葉

 父親から「正直であれ」って言われて。「嘘はつくな」「人には親切にして」と言われてきたのですが、父親が亡くなってからも、今まで人には礼を尽くして生きてきたのは、とにかく正直でなければだめだと言われたもんだから。世話になった人には年上でも年下でも、きちんと御礼をする。子どもたちにも嘘ついちゃダメだと言ってきた。軽い冗談ならいいんだけど(笑)。おかげでみんな何とかやっています。



【取材担当】鹿川、高橋
最終更新日: 2017年07月11日
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