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2013年12月2日 の記録
板垣 智恵子さん【大瀬川地区】
投稿者:早川峻介
カテゴリー: 土地の人に聞け
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岩手県から「食の匠」に認定を受け、昔懐かしい料理やおやつを伝承するとともに、それらを活かした新しい「食」の提案を行っています。また、長年にわたり地域の昔話を紙芝居で語るボランティア活動を続けています。



専業農家に嫁入り

 私が生まれたとき、父親は村会議員をしていたそうです。小学校に入ったときには、村会議長で農協長にもなった。農協の組合長のとき、倉庫を建てて挨拶するって学校の帰りだか見てたったんです。「あやー、父さん出て来た。おしょすこと(はずかしい)」って、私は下さばり見ていた記憶あります。

 実家は兼業農家だったんです。農家は嫌いだという話がある(風潮になってきた)ときに、私は、「農家はのんびりしていていい。どこが嫌なんだべ?」と思っていた。盛岡二高をおわって1年ほど家にいて、(お嫁に)来たったんだな。

 私はこの人(ご主人・板垣寛さん)を知らなかったのす(笑)。父親に嫁に行けと言われて。昭和32年だった。農家さ嫁ぐのは、実は母親と姉は大反対だったそうです。ところが父親が、この人のどこにほれ込んだのか、仲人さんと父親は話をしていたんでないかな。



専業農家での暮らし

 嫁いで困ったことは、兼業農家ののんびりした農家と全然違う。朝は早く、起きるときには、作業衣を着て起きなければならない。実家では朝ごはんを食べてから、作業衣に着替えたりしていたんだ。新聞配達は朝でなくて、ちょうど一服しているあたりにくるんですよ。

 私が嫁に来たあたりは、俵で米を出荷していた。分らなかったけれど、私もお舅さんから教えられて俵編みをした。秋の作業が終われば、俵編みをまずやって、春先までかかって俵を編むんですよ。あの頃は300俵ぐらい出荷していたかな。二人で300俵を編むでしょう。それを10枚ずつ束ねて、検査を受けて合格の判子をもらって、置いてて秋に使う。

 やったことのない俵編みをどのようにしているか、実家では大変心配した。指にあかぎれをつくっているのを見て、可哀想に思ってくれ、ハンドクリームを買ってくれた。手の水滴を拭き取ってもこうなる。水が変わるとだめなようだもんな。実家の水とどっかちがう。水質がちがう。絶対にあかぎれになるんですっけ。

 その小屋(俵編みをする作業小屋)は、平成3年まであった小屋なんですが、床張りの小屋だったんです。土間じゃなくて床張りだったので、なんぼか良かったけれども寒いよなす。うちのお袋が可哀想だからって、豆炭アンカとお布団をしいて、そこさ入れて編めって、持ってきてくれて。



俵から麻袋、そして紙袋へ

 そうしているうちに麻袋になったでしょ。麻袋になったら今度は大変だと。俵編みのほうが良かったと、みんなが言ったんです。米を出すときに手間(編み代)がプラスになるかしたんじゃないですか、多分。買わなくてもよかった。麻袋は1枚60kg分いくらと、買わなければならなかった。楽にはなったけど、やっぱり俵を編んでらほうが良かったというようになりました。

 ところがその麻袋の口をしめるのが、なかなか誰だりができない。我が家では、お舅さんの亮一さんと私しかできない。1俵は60kg。麻袋までは60kgで処理したんです。そうすると量って、麻袋に入れて、ターっとならべて、今度は、くえた(口を閉じた)のに腰をかけて、つぎの俵をしめて。昭和36、7年のころは麻袋になっていた。そしたら私が入院したわけだ。「家さ行って口をくえて来ます」と医者に言うと、家の人ができないのかと。「家ではお舅さんと私しかできない。米がたまってしまうので、行って口をくえてきます」とくえてきて、また病院に戻ったりしたことがある(笑)。その麻袋も終わりまして、今は紙袋です。



クボタのトラクター

 農作業の方なんですが、嫁いで来たときは、やっぱりこの辺りでは一番でしたもんな。耕地面積でも米出し(出荷)でも。耕運機が2台あったんですよ。実家の本家では、クボタのおっきい耕運機があって、私が嫁に来る頃は、本家でやってくれたりした。1台の耕運機が引っ張りだこだった。本家の旦那さんたちは、耕運機で自分の家のをやったら、いっこ暇なく、ほかの田んぼをやっているんだっけ。なんぼもしないうちに、クボタのトラクターを入れた。クボタのトラクターでやりだしたら、ずっと能率がよくなった。

 (その頃は)苗代なんですよ。私が嫁に来たときは、折衷もやっていたっけかな。折衷と水苗代があったんですよ。私は折衷できたったから水苗代の記憶はないわけです。(嫁ぎ先で初めて)水苗代の苗代掘りだかをしたんですよ。苗代掘りって鍬でやるんですが、めぐるたくなって(目が回って)、苗代さ転んでしまった。仕事にならないと思ったのでしょう。「車に乗せて早く家さ連れて行け。風邪引くんだ。」と言われて。おばあさんが家にいて、「転んだ」と言ったら、「おめばりではないよ(あなただけではないよ)。初めてやるんだから仕方がないんだ。ほれ着替えろ、着替えろ」と言ってくれて。「早く洗濯せ」って。それがこの家に来て、農作業の初めての失敗。



お舅さんが書いた『おふくろの昔話』(※)を紙芝居に 

 うちの人が、「この昔話を紙芝居にしたら、なんじゅだじゃ(どうだろうか)」って言い出したったんです。そして藤原文夫さんに頼んで3話ぐらい紙芝居にしたったのす。大瀬川地区は7、8、9区とあるんですが、7区の新年の交流会さ、「ボランティアの代表だから、来て話語りをしてくれないか」「だば、紙芝居をもっていってやってみるか」となり、紙芝居を持って行ったんですよ。「今の子どもたちは科学万能で、こんな話を聴いたって面白くない。“それはこうすれば、こうなるんじゃないか”と言われるんじゃないか」と言ったら、「まず、やってみたらいがえんじゃ(やってみたらいい)」というのでやった。

 親子、老人クラブ、みんな集まった新年会だった。大瀬川の話っこの「きつねの位取り」を、ちょっと長かったけどやったんです。したら、まるっきり目を凝らして聴いてるもんなっす。「つぎは何?つぎは何?」と言うから、「まず、今日はこれまで。また次に」と。一つしか持っていかなかったから。「はああ、よかった。面白かった」と言われたから、まんざら悪くもないなと思った。「おかげさまです」って公民館長さんからも、お礼を言われた。喜んで聴いてもらったから、いくらか自信がついた。今は(紙芝居を)大きくして、パタンパタンとめくったりするようにした。


※『おふくろの昔話』・・・智恵子さんの義父・板垣亮一さん(明治42年生まれ)が自身の母親から聞いた昔話をまとめた本。(1993年発行)



子育てについて

 子どもを育てるのに、いい加減でなくて、ダメなのはダメだし、いいときは褒めてやればよいし、親がきちんとしていないと、きちんとした子育ては出来ないと、両親を見て思っているから。そういうふうに、きちっと子どもを育てられればいいなと思っています。



手づくりおやつと「食の匠」(※)

 私も一応「食の匠」なものだから、食育活動をしなければいけないと思っています。忘れられてしまっているような昔食べたおやつって、懐かしいよなす。(私が子供の頃、)母親がちゃんと今日のおやつを用意してて、手紙が書いてあったんです。だから、友だちを連れてきても、食べて安心して暮らせた。

 「私も子どもには、手づくりのおやつを食べさせたい」って、お舅さんたちに言ったれば、「それはいいことだ。おらの分も小びるっこ(おやつ)をこさえてくれたらいいな」ということで、それを実行してきました。

 「雑穀は花巻が全国一だ。雑穀を奨励せ」というので、「よし、昔食べたものに雑穀をプラスして、ちょっと味を変えたりすればいいや」と思って。そんなことをやっていて、コンクールで賞をもらった。推薦するから、もう少し吟味して、「食の匠」に応募せって(言われて)「食の匠」になった。そんなこんなで特大の資格(食の匠)を持っております。

 花北青雲高校の家庭科で調理実習の指導したこともある。八幡小学校、宮野目中学校にいって蕎麦打ちも。花巻養護学校高等部に行ったときは、“雑穀入り卯の花お焼き”をやった。イナキビを入れてオカラを生地に混ぜて、お味噌には、ただの砂糖味噌ではなくエゴマを使った。エゴマ味噌をぬって。卯の花お焼き雑穀入り。これで岩手県認定の「食の匠」になった。


※「食の匠」・・・岩手県の認定制度で、"ふるさとの味"づくりを促進するために、これまで培われてきた知恵や技能を保存、伝承するとともに岩手ならではの食文化をまるごと消費者に発信し、地域農産物の生産拡大や、「食の匠」による“ふるさとの味"づくりに促進活動を通して、地域活性化につながることをねらいとする。


【取材担当】鹿川、高橋
最終更新日: 2017年08月24日
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