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2013年9月5日 の記録
溝渕 和雄さん【土沢地区】
投稿者:早川峻介
カテゴリー: 土地の人に聞け
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65歳(取材時年齢)

 東京で生まれ育つ。1970年にフォークシンガーとしてステージデビュー。目の難病が分かったことをきっかけに、ライブハウスで知り合った奥様の出身地、東和町に移り住み、土沢駅前に喫茶店「ほうほう」を開業(1999〜2010)。交流の輪が広がっています。



デビュー時の憧れ、小室等さん

 (奥さんとは)私がステージデビューした年の夏ぐらいに会ったのかな。(ライブハウスの)お客の一人だったんですよ。ステージデビューした年っていうのが、僕にとってはかなりいろんなことがあって。1970年ですね。そこの店ではね、井上陽水が出てたし、「古井戸」や「かぐや姫」がちょうど売れ出した頃かな。今、思い出しても結構有名な連中が出てたんですよ。でね、私がそこでステージデビューした直後に、そこの音楽マネージャーが病気になっちゃったんですよ。それを引き継いでやってくれないかなというので、音楽監督を兼任しながらプレーヤーとしてやっていました。

 学生時代からコンサート活動していた仲間に声かけて出てもらって。その中には「六文銭」ですね。小室(等)さんとは学生コンサートをしていた時代の仲間で、我々が盛り上がっていた頃の一番最年長で、素敵なピーター・ポール&マリーのコピーバンドやっていた。彼らのテクニックには、みんなが憧れていましたね。



マルビナ・レイノルズのギターを選ぶ

 それとね、ステージデビューの直前でしたかね。アメリカから日本の労音の招きで来た、フォークソングの神様と言われるマルビナ・レイノルズっていう、おばあちゃん(のフォークシンガー)がいらして。マルビナ・レイノルズは、ピート・シーガーと並び称される、フォークソングの当時の神様と言われていた人なんですけどね。素敵な楽曲をたくさん書く人で。

 その彼女が、(日本)全国を労音(の主催)でまわるわけですが、「日本(製)のギターで演奏したい」ということを来日直後に言い出されて、主催者が「どうしようか」って言うんです。当時、『新譜ジャーナル』っていう音楽雑誌で(自分が)ギター講座を担当していて、たぶん『新譜ジャーナル』のギター講座を主催者が見て、こいつに選んでもらおうというので、(自分に)お呼びがかかって。

 一日ご一緒して東京の主だったギターメーカーを歩いたんです。私が弾いて、「これいいんじゃないですか」って選んだものは、彼女にとってはネックが太いとか。それと音色。結構しゃがれ声の歌声だったもんですからね。そういったことを考慮し、私はいいなと思って、おばあちゃんに渡して「いかがですか」と言うと、「私の声には、ちょっと線が細すぎるんじゃないか」とか。

 丸一日歩いて、最後、御茶ノ水だったかな、ギターメーカーのハンドメイドのギターを選んで差し上げたら、えらく喜んで。ホテル帰って、「ちょっと遅いけど、午後の紅茶を一緒しよう」って言うんで、サンドイッチをご馳走になりながら、おばあちゃんの大好きな曲を、私がその買ったばっかりのギターで歌って、しばらく時間を過ごしていたんです。非常に気に入ってくれて。サンフランシスコ・フォークソングクラブっていう団体がありましてね、そこの会員になれって言って、その場で会員カードに彼女が手書きで署名してくれて。会員には、その当時フォークソングの主だった素敵なアーティストがたくさんいましたね。



東和町へ移住するきっかけ

 (東和へ移り住んだのは)98年の暮れですね。治療ができない眼病にかかっていた、というのが(移住の)きっかけですね。

 98年の夏に譜面が見にくくなりましてね。眼科医院に出かけて、健康チェックも兼ねて、「メガネ作るからちょっと見てください」と言ったところ、私の目の病気がわかって、すぐに精密検査を予約してくれて。

 診てもらったら、95パーセントの視野が死んでしまっていて、残りの5パーセントで物を見てるって。これで本当に車なんか運転していたのかって状態で。網膜色素変性症っていう治療法のない難病に指定されている眼病。私は先天性だったようです。思い返すと、ああなるほどっていうことがあって。その眼病の特徴というのが、暗いところで見えないんですよ。視野がどんどん壊れていってしまうんだけど、僕の場合は少しずつ周りから壊れていって、検査した時は5パーセント未満だって言っていました。治療法がなくて、このまま進行すると失明すると。

 都会で暮らすのは、ちょっとしんどいんじゃないかって。大学の診断が出たときのお医者さんのアドバイスは、「人生設計をもう一度考えてみませんか」。それがきっかけです。たまたま女房も「こっちで暮らすか」みたいな話になって。私も結婚以来、毎年夏の休日は、こっちに来ていた。長女と私たち夫婦、とりあえず3人は東京を離れようかって。次女と長男は、東京でやりたいことがある。東京の家に彼ら2人を残して、こっち来たんです。



「カフェほうほう」での出会い

 こっち来て「カフェほうほう」始めたんです。まったく飲食店をやるなんて、考えていなかったんですけど。子どもたちの「おだて」にのっちゃったんですかね。私が作る「カレーとシチュー、ママが作るハンバーグは世界一おいしいよ」とか。子どもたちですからね。世界一おいしいの「世界」っていうのも、ほんのこのくらいしかないような世界なんだけど。それと、やっぱりコーヒーが好きだった、っていうのがあるかな。そんなことをやりながら暮らしていこうかと。それが、みなさんと交流を頂戴する機会の拠点になったことは確かですね。

 小さなカフェだったんですけど、あそこで出会えた人たちっていうのは、東和町のみならず、結構あちこちからいらしていたり。車を使わないで、汽車(鉄道)でいらっしゃる方がいる。駅前で、ちょっと一息いれるような。コーヒー1杯召し上がっている間に、いろいろお話しする機会があって。そのとき盛り上がると、リピートしていただいたり。友人と言われる人たちにお会いできたのも、そのちっちゃいカフェのおかげでしたかね。



音楽に対する自身の変化

 私はこっちに来るまで日本語の歌っていうのは、ライブハウスで演奏する時なんかでも歌ったことなかったんですよ。というのは、ステージデビュー以来、テレビコマーシャルなんかも随分やらせていただいて。それ全部日本語ですから、日本語を歌うっていうのと、コマーシャルソングっていうのが変に結びついちゃって、日本語がなんか恥ずかしいみたいな、ちょっと抵抗があったんですよ。

 ところが東和町で暮らすようになって、日本語の響きの良さっていうのかな。たぶんそれまで耳にしなかったこちらの言葉が、独特の響きを持っているっていうのがありましたかね。なんていうのか温かみがあるし。聞いた言葉でいくつか女房に聞いてみると、サウンドとしては方言そのものの、東京で暮らした人間にとっては発音しにくいような音なんだけど、でもそれは、かなり由緒正しい雅な言葉であったりとか。僕には綺麗な美しい響きに感じましたね。

 東京弁っていうのは、何か説明する時にはいいのかもしれないけど、心の中の微妙なところを表現するには、標準語っていうのはちょっと舌足らずのような。こちらの言葉の微妙な所の表現力っていうのはすごいなっていうのがあって。それで日本語をちょっと気にするようになって。

 何となくこっちで暮らすようになって1、2年する間に、昔自分が作った日本語の作品を歌えるようになった。それと同時に、“私たちがプレーヤーでお客様がリスナーなんだ”という状況でもって私たちはコンサート活動してたんだけど、こちらで暮らすようになって、リスナーの方たちも一緒に歌いませんか?って言ってライブで何曲か歌ってみると、「おっ!」ってびっくりするくらいな音楽が出来上がる。それが、私たちがそれまで携わってきた音楽のあり方とはちょっと違うものが今ここで展開されているっていうのは驚きでしたね。これは今でも思っていますけど、東京の音楽仲間に伝えたいことの一つですね。



人が多すぎない暮らしやすい環境

 人が多過ぎないことというのは、人間にとっては暮らしやすい環境を形成しているような気がしますね。東京だと30分移動する間に、どのくらいの人に会うんだろうかっていうくらい、人とすれ違いますけど、(東和町は)すれ違う人は少ないけれども、一言挨拶するだけで、心が和むというのかな、自然の本来の佇まいというのかな…。東和町っていうのは、ほどよく自然と人の暮らしが、うまく混ざっている素敵な(まちです)。これは財産じゃないですかね。

 去年はパソコンで音源編集していたんです。その部屋のここに窓があるんだけど、こっち向いて編集して、音を止めてヘッドフォンをはずそうかなと思ったら、(外から)ガサガサって聞こえて。そしたらカモシカが歩いて行ったんですよ。安俵の自宅でした。顔を合わせた瞬間に、向こうもびっくりして、20メートルくらいパーっと逃げて。違う窓からのぞいたら、まだこっちを見ているんですよね。夜中に、ご近所の犬が、けたたましく吠えてたりするのを聞くと、獣が近くにいるのかな、という鳴き方してたりね。



東和町は大きな優しい受け皿

 僕にとって、カントリーライフっていうのは、僕の何かを受け入れてくれる、とっても大きな優しい受け皿のような気はしますね。シティライフにはない落ち着きを感じるし。

 都会で生まれ育ったもんですから、ちょっと活動の場に面食らった部分は確かにありますけど、東京にない活動の場っていうのがある、っていうふうに気がつけたのは、とても大きなことだと思いますね。ですから、コンサートホールとかテレビのスタジオとか、レコーディングスタジオにない表現の場というのがあるっていうことは、やっぱり感じます。

 東和町にいると、「生きるって、もしかしたら、こういうことなのかな」って。まだはっきりはわからないけど。この中で生きていくのが俺の生き方なんだなっていう、そんな気がしますね。



【取材担当】浅沼
最終更新日: 2017年09月15日
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