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2013年8月30日 の記録
菅原 昭二さん【大瀬川地区】
投稿者:早川峻介
カテゴリー: 土地の人に聞け
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昭和2年生まれ 86歳(平成25年8月30日取材当時)

菅原昭二さんは、大瀬川地区に3基ある戦没者慰霊碑と慰霊祭について調べています。かつて林業や炭焼に携わる人が多かった地域の暮らしぶりについても、語っていただきました。



●大瀬川戦没者の慰霊碑と慰霊祭の始まり

1基目の「記念碑」のこと

 建っている記念碑を見ると、3基建っているんですよ。1番先のは西南の役と征清の役(日清戦争のこと)と書いてあるんです。在郷軍人の人たちが、たぶん先にたって出資したり、地域からも寄付があったと思うんですが、その人たちが建てて。名称は「神武天皇祭」ということで、継続されておったんですよ。

 その1番先に建てた碑は「記念碑」となっていて、長い碑文がついているんです。漢文で書いた。それを読めば何か書いているが、私は読めないです。“明治30年4月3日”と日にちが入っている。4月3日というのは昔の神武天皇祭だからっす。裏には戦死された人たち2人(の名前が刻んであり)、戦死とは書いていないで、「故」と書いて、2人の名前が書かさっているし、そのほかに従軍者の名前が裏さ、ずーっと刻まさっている。

 だから慰霊祭は神武天皇祭と一緒に、その当時、その碑を建てたときから行われたのではないかなと、碑を見る限り私は感じるんです。


2基目は「戦勝記念碑」

 その次に建っているのは、明治38年と書かさって、それが「戦勝記念碑」となっているんです。その裏にやっぱり「故」となって、2名の人(の名前)が書かさってあるんですよ。いずれも冠等級入れて。冠等級というのは、軍種陸軍海軍の何々、何等兵とか何等水兵とか、前のもそういうふうです。当時の従軍者が、故と書いた2人のほかに、全部裏一面覆うだけの人数が書かさってある。だからそのころから始まったのではないかと思うのです。明治38年は日露戦争。日露戦役の従軍者が裏に書いてある。


3基目は「銘々碑」

 そしてあと1基は、戦後1956年の11月に建てている。それは「銘々碑」となって建っているんですよ。戦争終わって、ずーっと経ってからだから。戦死者だけ刻まれているんですよ。裏の方は建てるときの拠出金とかの発起人建設委員の名前を刻んでいるのだっけから。前の方は、名前と年齢と戦死した場所、そういうのを一人びとり全部書かさっているんですよ。約50名書かさってあるんですよ。それが満州事変と日支事変と大東亜戦争と。それを見ると過半数の戦死した人たちは、昭和19年から20年で、20年が多いようだっけな。しかも20代で亡くなっているんです。


慰霊祭運営の移り変わり

 それでこの慰霊祭は、本当はその在郷軍人の人たちだけでやっておったものなようでしたが、昭和の何年ころだか記憶が無いが、だんだんに亡くなったりして、在郷軍人の人たちも数少なくなってきたものだから、とても在郷軍人の人たちだけでは、運営していくことは面倒だから、これを地域の伝統的な行事としてやってくれないか、という提案がありまして、それを受け継いで今までに至っているわけです。

 「神武天皇祭」という名目を使ったのが、いつまでかは記憶がはっきりしませんが、地域でやるために公民館事業にできないかという話になったんですよ。公民館としては、事業としては戦後になってからの情勢から見れば、まずいと。そこで神武天皇祭保存会という名前にして、保存会という団体に変えて、ある時期までそうしてきたんです。

 戦争を知らない人たち(がほとんど)になってから、それを継続していくには、「神武天皇祭」ではちょっと具合が悪いので、「戦没者慰霊祭」と名称を変えたんです。その運営母体を慰霊祭実行委員会として、現在まで継続しているわけです。


二百三高地の戦いと満州事変

 日露戦争に従軍した人の話では、二百三高地の戦いは、とても壮烈な戦いであったと。「おらは生きて返ってきたんだけど、亡くなった人を弔ってやらねばならない」と話した。話をした人は、すでに亡くなったが、孫の人がそういう話をしたったんです。

 満州事変はどんな事変だったか、おらは分らないが、そんなに亡くなった人はいないと思う。日支事変でもそんなに多くないと思ったな。日支事変になると町葬があった。町で葬式をやった。今のビバハウス(元の石鳥谷小学校)で町葬をやったものです。小学校からも児童(5年生ぐらい以上)も参列したもんだ。



●大瀬川地区の話

飲み水と灌漑のこと

 家の辺りは飲み水は良かったが、灌漑(かんがい)水は不足だった。北寺林も高台の方は苦労したようだ。(ここは)北寺林と同じ。昔は飲み水は井戸を掘ったり、泉があるところさ井戸にして使ったりしたのさ。今はほとんど町水道だから。でも私のところでは両方使っています。水道ばりだと困るんだ。何かで水が来なくなれば困る。


営林署の仕事

 7区は昔、山仕事が多かった。農地といえば、畑のほうが多くて、田んぼは、うんといい辺りなんだ(稲作は条件がいい土地で行った)。山の沢の水で小さい田んぼを起こしたり。そればかりでは、わねから(経済的に不足だから)、山仕事をしてなす。炭焼きをしたり。いずれ国有林が多くて、営林署直営の苗圃(びょうほ)の仕事があったもんだから、苗圃で働いたりした。植林すれば、下刈りがある。大きくなれば、除伐といって、間の雑木を切ったり。冬になると、藤が絡まっているのを切る仕事があって、そういうのをやったりして、生活をなんとか繋いできた。


炭焼・山仕事と杜氏の仕事

 炭を焼く人たちが毎年、営林署から払い下げをして、ほとんど冬の仕事として、(炭焼の仕事を)やるような仕組みがあった。夏にやる人もあった。それから、ほぼ大瀬川全戸が入っていたんだが、委託林といって営林署から借りたようなもんなんだな、「委託林組合」を組織して、毎年区切って木材を払い下げしたもんだなす。薪にとる人もあれば、人出なくなってくると、人が出せる人は、それを何人かの分、自分に譲られて炭焼きをしたり。田んぼが少ないせいもあると思うけど、山仕事も多かった。

 そのほかに酒屋働きも多かった(杜氏として出稼ぎするものも多かった)。ほとんど酒屋さ出た。出ないうちって何軒もないようだっけな。おらは調べていないけど、そうらしいなは。



【取材担当】高橋
最終更新日: 2017年12月01日
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