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2017年9月4日 の記録
川村 友治さん【花巻中央地区】
投稿者:ふるさと 遺産研究所
カテゴリー: 土地の人に聞け
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昭和16年生まれ
 
 出身は二枚橋で中学校卒業後に豊沢町に移り、以来約60年間山車の製作に携わってこられました。また、花巻まつりの歴史にも造詣が深いため、山車の製作に合わせて花巻まつりの歴史とその変遷についても伺いました。



子供の頃の遊びと自動車への興味
 
 子供の頃は田んぼで三角ベースの野球とかやったね。ただ、家で農家を手伝わねばならなくて皆と同じくらい遊べないのさ。あとは、大工の仕事が好きでスキーを作ったりもした。これは薪の用意って、お手伝いも兼ねていた。当時は薪が生活の一番の資源だったわけさ。でも二枚橋では薪が採れないわけよ。そこで営林署が払い下げる木を国有林から毎年冬場に切り出して一年間の薪にしたんだ。中学校の2年生の時に、その薪にする木でスキーを作った。そしたら、部落中で有名になってしまって、「お前はてんどいい(腕が利く)から大工なれ」と言われた。でも、大工も好きなんだけど自動車も好きだった。これからの世の中は自動車だと思っていたね。そして昭和32年、16歳の時に学校出てすぐ、豊沢町のラビットスクーターってバイク屋さんに就職した。そっから車屋になって今まで続けてきた。



山車作りに携わるようになったきっかけ
 
 豊沢町さ来てから山車を作ってる。務めてる会社の近くに山車小屋があるわけだ。その小屋は今はパイプだけども、私が豊沢町さ来た頃は長木(ながき)を荒縄で結びながら組んで作っていたわけ。けど、町の人たちは縄をお祭りの時しか使わない。それでへたくそに結ぶから重みで長木が下がっちゃうんだ。私は中学校の頃に稲ばせを組んでたから結び方を知っていたの。だから、その場に行って下がらないように結んでやった。そしたら、その部落の代表に「おめえ大したもんだな」と言われた。さらに詳しく結び方を教えたら、「おめえ祭りさ必要だな」って言われて、祭り(山車)をやるようになった。このロープの編み方や結び方は消防署とか国土交通省に頼まれて教えたりもした。それで山車小屋作りやったら今度は岩波担当、構造物担当とかみんな預けられてチーフになってしまった。



山車づくりで任された仕事
 
 それで色々仕事任されてきたけど、40年近く前の話かな。俺が総務やってた時に、今年は岩とか波を新しくしなきゃならないという話になった。それで「手下を連れて材料を集めてくれ」と言われたんで、日にちを決めて朝に集まることにした。その日はPTAのキャンプもあったんだけど、途中で抜けて急いで集合場所に行ったんだ。けど、町内の人は誰も集まってこねえの。それで、みんなに電話をかけたら、都合悪くて集まれねえって言うの。そして結局3人しか来なかった。頭さ来たけど、俺親分だし、実績作らねば文句も言えない。それで、3人でなんとか朝から夕方までいっぱいかかって、材料を集めた。その後でみんなを公民館さ全部集めて雷落とした。それで、意識を改めてもらって「祭りは欠かすことのできない大事なもんだから、みんな腰を据えて、ちゃんとやりましょうや」となった。

 それ以来はもうね、集まりもよくなって、例えば、祭りの前日に前夜祭っつうのあるんだよ。鳥谷崎神社に行くの。この前夜祭に行くのは豊沢町だけだ。ここ何年かは里川口も来るけど。もう絶対前夜祭は行くぞって、こいつは俺決めてから休んだことね。まず、祭り3日間は当てにするのはダメだと。(前夜祭を入れて)4日間と思って祭を準備してもらう。



川口まつり

 お祭りの話はこれから本番に入るよ。花巻まつりっていうのは、今から40年近く前の藤田万之助って市長が観光祭りにしたんだけど、元々は川口村の川口まつりだったんだ。川口村の歴史について話すと、花巻城にはえらい頭の切れる北松斎って殿様がいたわけだ。そして豊沢川の向こうに、城で働く侍の武家屋敷があった。それで城で集まれかける陣太鼓を叩けば桜町の武家屋敷から侍たちが歩ってくる。その通りが川口村のメインストリート。今の豊沢町なんだ。そこの川口村で殿様から声かけられて始めたお祭りが川口まつり。南部の言葉で訛って『かぐちまつり』と言った。



山車を担いでいた時代
 
 それから、昔は担ぎ祭りだったの。江刺って昔の岩谷堂の人たちに声を掛けて、花巻のお祭りで山車を担いでもらった。花巻と岩谷堂は繋がりが深かったんだ。北上川を上がって花巻や盛岡に来るのに岩谷堂を通るからね。今、花巻城跡の近くに飾ってる十何メーターの高さの祭り(山車)あるべ。ああいうのは軽く作ってあるわけだ。要するに軽い素材を利用して籠の様に作ってた。それで、それを担ぐ人夫さんが70人くらい豊沢町に手間取、つまりお金稼ぎに来て、お祭り3日間担いで花巻まつり終わったらちょうど稲刈りっていう風な習慣だった。



山車の変化と台車作り
 
 山車はだんだんエキサイトして高くなっていった。一番高くなったのは明治の後半、大正の初めかな。だけど、電線が横断するようになったから、ちょっと低くして、低くすれば担ぐことねえから、台車に積んで引っ張ることになった。台車だけども、当時の花巻には馬車を引っ張って歩く商売の人もいっぱいいたわけよ。その馬車を借りて山車を乗せたんだ。その後、俺が26歳の頃かな。時代も変わって馬車から自動車の世の中になった。馬車が借りれるとこがなくなったの。それで、台車を作ろうというので、中村鉄工の旦那、中村さんとお祭り(山車)専用の台車を作った。最初はトラックの車体を解体して台車を作ったんだけど、10年くらい使ってから鉄骨で一から作ることになった。そしたら、よそからも製作を頼まれて末広町、上町、東町…と4, 5台作ることになった。



山車を曳く人
 
 その台車を引っ張るのは、昔は地元の若い衆だったの。太鼓叩いたり、引っ張ったり交代でやった。私が担当やるようになってからは、人手不足で富士大の柔道部に手伝ってもらっていた。卓球部とか陸上部とかに変わったりしたけど毎年富士大にはお願いしてた。豊沢町は必ず9名くらい頼んでる。昔の70人さ比べれば人も減ったな。

 それから、女の子も山車について小太鼓を叩く。(今は)親が子供心配だから小太鼓の脇につくんだけど、山車を担いでいた時代は、小太鼓は脇の人たちが肩にかけて歩いたの。竹2本で小太鼓を4つも5つも挟んで、それをさらしの白い帯で肩に担いで子供たちに叩かせた。持ったのは婦人部の人とかだね。子供が小太鼓をドンドンと叩けばね、一斉に肩に重みがかかる。それで赤く擦れてしまう。だからまた手ぬぐい畳んで肩に挟んだりしたのさ。担ぐのをやめて台車にしたのは昭和36年頃かな。スクラップの三輪車を使って小太鼓乗せる台車を作ったりした。今は市販のキャスター使って台車を作ってる。



山車の製作
 
 曳く山車の数は景気不景気によって変わってくる。多い時だと全体で15台出たこともあるね。それから公民館とか街灯を作るためにお金を集めねばねっていうことになると、山車を出せないこともある。うちも山車に大体380万円くらいかかる。ここ30何年で豊沢町がお祭り(山車)を休んだのは2回。一年休むと道具が腐ったり壊れたりして次の年に出すのも大変なのよ。
 
 山車を作るのに、そうやって使いまわす道具もあるけど、花類は毎年新しく作ってる。花類は全部紙なの。紙を型取って、切って、絞って花びらにするわけさ。そして造花みたいに固める。七輪で熱したアルミのボウルでパラフィンを溶かして、それを紙に筆で塗りこんで冷ましてやると固まるわけさ。そうやって、お花を作ってるわけ。終われば芯だけ残してみんな壊すんだけどな。

 それから、お祭り(山車)にはね、道具や構造物作るだけではなくて、風流考えたりする人も必要なのさ。四日町の小弥太さんで働いている人が風流なり歌舞伎なり色んな事を知っている。こういう人がいないとお祭りにはならないのさ。豊沢町はもともと歌舞伎系の山車。ただ、見返しの方は宮沢賢治の生まれた土地なので14, 5年前から宮沢賢治にちなんだものをやってる。



アセチレンランプ

 風流も大事なんだけど、花巻まつりの伝統的に一番大事なところっていうのは……花巻まつりでは山車にアセチレンのランプを使ってる。カーバイト使って、ガスを燃料として火を点けて、それを照明に使うわけだけども、そのガスの火口を作ってる会社が製作を中止しちゃったの。それでどうしようかと相談中なんだ。近代的にさ、発電機でやろうかと、で、やってしまうと、やっぱり伝統的なね。ゆらゆらと揺れるガスの灯があるからこそ花巻まつりであって、それがなくなったら、どこの祭りも一緒だもんな。おもしろくねくなっちゃうから、やっぱ残さねばねと。今話し合いで、そのガスの火口を新しく作ってもらうとこを、どっか見本持ってあたってみようていうので、今、俺2, 3件あたってるんだけど、まあ、なんとかなりそうなんだけどな。  

 昔何かの記念で、大阪の御堂筋で山車を曳いたことがあったの。夜なって、ガスに火を点けようとしたら、消防署に危ないからって止められたんだ。こっちだと昔から火を使ってやってるから、「注意してくださいよ」で済むわけさ。これをいったん電気にしたら戻せなくなっちゃう。だから、絶対に火を使い続けてかなければダメなんだ。まあ、火口はなんとかなりそうなんだけどな。ちなみに、山車に火が移ったことは何回もある。でも大きな火災はない。消火器とか水を備えてるんだ。



花巻まつりの神輿

 私は山車だけじゃなくて神輿もやったね。昭和37年辺りから3~4年かな。神輿をやる若い衆の人手が足んねえから、手伝ってくれと。それから20年くらい前にもやったね。まあ、その時は大変だったよ。山車と神輿と消防と。だから一日に半纏3つ持って歩っていた。
  
 この神輿だけど、花巻では2年くらい前に台数が世界一だとかでギネスに認められた。ただ、神輿も受け入れがきちんとしねえと、掛け声がみんなバラバラなのさ。「わっせい」とか、「せいやー」とか様々。花巻さ来たときは花巻のしきたりで「わっしょい」でやってもらわねばだめだと。



神社神輿の変化

 一般の神輿とは別に神社神輿っていうのがあるわけ。お祭りの時には普段は奥の院にある御神体をそれに乗せるの。花巻では、花巻神社、それから鳥谷ヶ崎神社。そのお祭りが3日間なわけ。初日に神社のお通りで神様を連れて歩く。そしてその神輿を神社の関係者とかが担いで、初日にお旅屋に行って、お旅屋から今度は氏子って神社の係員のとこを一回り歩いて、3日目の夜に帰る。昔は座敷祭りってさ、親戚を呼んで色んな御馳走をしたわけ。そうすると、お神輿さんが行列で権現さんとか色んなのが回ってくるわけよ。そんとき親戚の人たちが皆、家の前に出て御捻りあげたり、御賽銭あげたりして拝んで、「神様どうもありがとう」って、送ってやるわけ。そこで町内を神様にゆっくり歩かせようっつうので、町内の山車が先頭に立って歩いたの。そういう祭りだったのさ。だんだん省略されてきてしまって、御旅所(おたびしょ)が無くなってからは中日に出発して、その日のうちに帰るようになった。

 全国的には方々に御旅所(おたびしょ)ってのがあるんだよ。御旅所っていうのは神様が表に出たときに泊まる場所。鳥谷崎神社の神様がお祭りの時は本殿から庶民のところに出てきた方がいいんじゃないかってことで作った。それが、昭和39, 40, 41年と3年続けた火災のいつだったかな…燃えたわけだ。俺が消防さ入ったばかりの頃だ。それで無くなっちゃったわけさ。



花巻人形の風習
 
 花巻まつりとは違うけど、お祭りに関係する話で、花巻人形ってあるんですよ。北松斎の時代の話なんだけど、女は一年中朝から晩まで家の中で働いて、野良仕事までしてると。だから女も大事にしねばねえとなった。それに合わせて新しく大地の神様を作ろうということもあったもんで、お雛人形を土で作って雛祭りをやるようになった。それで、花巻で生まれた人は土で作った雛人形を買って、それを嫁に行くときに嫁入り道具で持っていくんだよ。そして、それを自分の娘に繋ぐんだと。これが土人形。花巻人形っていうやつだ。



今まで食べてきた中で一番美味しかったもの

 盛岡に「食堂園」ってあるんだ。俺が16歳の時、仕事頼まれて盛岡に行って、そこで冷麺食ったんだけど、火吹くくれえ辛いんだ。そして、そのソバそのものも生ゴムだ。歯で切ることできねえくれえ固い。なんでこんなのに高い金出して食うんだべって思った。でも、その辛さがね、後々頭に残るんだ。んで、そこの冷麺が好きなやつがいて、通ったわけだ。それでそのうち、やみつきになってしまった。「この冷麺はうめぇ」って。他の冷麺はもう食えねえ。



【取材担当】寺嶋(岩手県立大学)
最終更新日: 2017年11月27日
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