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2012年1月13日 の記録
板垣 寛さん【大瀬川地区】
投稿者:早川峻介
カテゴリー: 土地の人に聞け
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昭和7年2月7日生まれ

厳冬期、大瀬川地区に現れる巨大氷柱「たろし滝」の測定保存会を運営。また、石鳥谷賢治の会では、石鳥谷における宮沢賢治の足跡を調べている。



平泉末裔の畑集落と「たろし滝」

 葛丸ダム湖というダム湖が、ここから約10キロばかり(上流)のところにあるんですよ。かつては平泉の末裔の方々が住んでおったんですよ。

 今から900年前、頼朝が平泉に18万騎で攻めて来た。その時、古老の人たちが若いまだ20代前の青年たちに、君たちは若いんだから逃げ延びた方がいいと言われた。若い人たちは、いや、逃げ延びるより、おじいちゃんたちと一緒にここで死ぬ、と言うのもおったけども、新天地を求めて逃げ延びていく、という若武者もあったと。馬と武具と食料とを持たせて、夜逃がしてやったと。

 十何騎だったようですが。彼らは平泉から江刺に来てね、江刺から土沢とか、とにかく北上川の向こうを北上してきてね、盛岡に来て、盛岡から雫石町に行って、雫石町から今度は大村部落という部落があって、そこから葛丸の山奥に入って、生活をしてきた一集団があったわけですよ。その人たちがですね、畑集落というところに何百年も住んでおった。

 今のように天気予報もない時代は、米を作るような段階になった時、果たして、今年豊作だべか、暖候期は寒いのか暖かいのかというような判断材料がほしかったわけだね。それを「たろし滝」に求めて、何百年となく、これを占いの対象にしてきたんだと、いうことなんですよ。



古老からの助言

 昭和49年に、かつてそこで暮らしていたった当時70歳の古老の家に、私が行ったんです。山の仕事をやってくれって、お願いしておったったんです。そしたら、「たろし滝を見たことあるか?」と。「たろし滝は大変当たるよ」と。「なんたに当たるのす?」って言った。たろし滝が細いときは、米の実りがあまりよくないと。たろし滝が例年より太い場合には、豊作なもんだと。何百年となく、あのたろし滝を遠くから眺めて、占ってきたもんだと。「板垣さんも関心あるんだば、行ってみた方がいいんじゃないか」と言われたった。



昭和50年から測定を始める

 ご承知の通り、稲作というのは天候に左右されるわけです。私は稲作農家なもんですから、大変いいことを聞いたと。なんとしても年明けの太くなる状況になったならば、確かめてみたいと思ったわけですよ。

 果たしていつ太くなるか分からなかったですがね、まず12月に行ってみる、1月にも行ってみる、2月にも行ってみる……自分だけで行ってみたったんですね。そしたら、だんだんに、こう(太く)なってきたんだよ。一番最初の昭和50年は4.2mだった(自分が確認した)。それからずっとそれを測ってきたわけ。



大瀬川たろし滝測定保存会

 平成7年あたりから話をして、平成9年に「大瀬川たろし滝測定保存会」という名称で発足し、今は会員136名おるわけです。ほとんど地元の人たち。2月11日の建国記念日にやると。ちょうど、(花巻市の)わんこそば大会と同じ日になってしまったわけですがね。

 わんこそばも事情が同じだと思いますが、私の場合は、測定の日はマイカーで約300名くらい来るわけですよ。幅の狭い道路なもんだから、大瀬川分会の人たちの力を借りて誘導したり、様々やらなくちゃならないことばりあるもんですから、市役所に勤めている連中もいる。会社に勤めている人たちもあってですね、どうしても休みの日じゃないばダメなもんだからそうやっているわけ。それから盛岡気象台に行って、本当に寒い時期はいつかとお聞きしたっけ、2月上中旬だと。そういうことで、その日(2月11日)にやっているんです。



たろし滝の異変

 本当にたろしが太い時は豊作だったか、崩落した時は豊作じゃなかったかという検証になるわけですが、平成になる前は崩落したことは、ほとんどなくてね、細いか太いかという現象だったの。ところが、平成になった途端に、暖冬が顕著になりまして、たろし滝になってもガチャンと落ちたり、あとはならなかったりするわけです。

 昭和50年から昭和63年までは測定不能がたった3回しかなかったの。ところが平成元年から計測不能ががたがた出て来るわけ。計測不能が3年続いたとか、こういう現象が出て来たの。



測定不能は地球温暖化への警告

 これは四季のメリハリがなくなって、いわゆる地球温暖化の災いだとまず私は思ってた。いろいろな文献調べてみた。平成3年か4年あたりから地球の温暖化現象というのが言われ始まったもんね。去年(平成23年)こういうふうに太くなる(5.68m)というのは、温暖化現象の中の特異な年になる。古老の方が何百年も前から太ければ豊作、細ければ不作というジンクスは、今はもう考えられなくて、たろし滝は地球の温暖化に警告をあたえているとみた方がいいんじゃないか、という解釈を私みんなに言っているわけさ。地球の温暖化を阻止するために、各国の首脳や関係団体がいろいろと取り組んでいるんだが、その成果が表れればね、また昔通りになるんじゃなかべかと。そういう意味では、大変地球の温暖化に、これが敏感に警告を与えている。そういう解釈をすべきだと、私はみなさんに言っているんです。みんなそうだそうだと。そういうことだなということになってるのさ。今はね。



「たろし滝」という名前の由来

 我々の先輩たちが「たろし滝」って言ってるわけ。私は物好きなもんだから、古語辞典で調べたんですよ。そしたらね、「垂氷(たるひ)=つらら」とあるんですよね。それが訛って「たろし」。この辺の方言ではそうだと。それが滝のようだから言っているわけだ。



『賢治先生と石鳥谷の人々』を刊行

 親父(故・板垣亮一氏)が宮沢賢治の教え子だったわけです(※1)。いろいろそういう面でも宮沢清六さんから可愛がられてね。これは(私が)ずっと前に書いた本『賢治先生と石鳥谷の人々』です。そういうようなことで、私、宮沢賢治が石鳥谷に関わった足跡を検証したいもんだと思いまして、一冊にまとめたったのす。

 ご存知の通り、石鳥谷には(宮沢賢治が書いた)「楢木大学士の野宿」とか、さまざまな事跡がいっぱいあるわけです。一晩泊まってあれしたとか、肥料設計相談所をこの家(先述の本に載っている写真を指して)でやったとか、みんな親父も関わったもんだから、そういうのをみんなまとめようとしてやったったのですが、この本書いてから、またかなりさまざまなことが分かって、加筆しなくちゃなと思いますがね。

賢治がたろし滝を覚えていたったか、(訪ねて)いなかったかという問題になるわけですが、私の家にも賢治は来たったんですが、残念ながら冬は来た足跡がないの。(おそらく見ていない)

 菊池信一さん(※2)という方は若くして亡くなった。私の親父と親友だったんですよ。明治42年生まれで。賢治にも大変可愛がられて、期待の星だと言われたったんだけど、戦争で亡くなったわけだ。その生涯を本に書いてね。

(※1)花巻農学校に開設された岩手国民高等学校で宮沢賢治から教わった。
(※2)宮沢賢治が石鳥谷の農民を対象に行った肥料相談所では、賢治の教え子で石鳥谷在住の菊池信一が企画と準備にあたった。



父から聞いた賢治先生のこと

 例えば土壌学についての講義の時間に、天文学の話とか芸術の話とか、もうあっちへ飛んだりこっちへ飛んだり、ババババと話して、黒板さうんと書くんだって。こっちは(速すぎて生徒たちが)ノートとれないんだってさ。これも教えたい、あれも教えたいと、どんどんしゃべったのが印象だったと。それから健脚だったようですね。大変歩くのが速かった。



父・板垣亮一の著書『葛丸の里に生きる』

 父の板垣亮一は『葛丸の里に生きる』という、この辺の昔の年中行事のことを書き残して死んでいったわけです。花巻市内であれば、だいたい同じようなことをやってきたと思うんですよ。明治、大正あたりからね。それをごく簡単になす、親父手帳さ書いていたもんですね。

(私の家では今も)小正月の行事と雪中田植もやっているの。寒い時期、1月15日。これ(本)に書いてあるでしょう。「稲わら、麦から、豆から、麻からの四種を家の周りの田畑の上に四株づつ植える」と。そして厩肥を敷くと。小正月には繭っこ団子を作るだとか。花巻地方の田舎では、こんなような年中行事を繰り返して生活してきたんだと。



『おふくろの昔話』と民話クラブ

 親父は大瀬川に伝わっている昔話を書いている。大瀬川の振興センターでは、この『おふくろの昔話』の41話を紙芝居にして、語り部を養成している。大瀬川の振興センターでは、メインの活動として、『おふくろの昔話』の紙芝居に取り組んでいくことを目玉事業にしようとしているんですよ。

 民話クラブを立ち上げましたが、『おふくろの昔話』の輪読会をやったり、紙芝居の語り部養成をやって、うちの家内もその一人になったわけです。そこから4、5人の語り部が育ちました。そして何カ所かさ行って公演をやりました。大瀬川振興センターでは、『おふくろの昔話』の紙芝居を花巻の財産となるように、これから構築していくべということを言って、熊谷善志くんとか菅原得之くんが張り切っています。




【取材担当】 丹後、伊藤
最終更新日: 2018年01月11日
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