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2014年6月21日 の記録
大原皓二さん【八幡地区】
投稿者:早川峻介
カテゴリー: 土地の人に聞け
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国際興業が資本統括する以前から、約40年にわたり花巻温泉に勤務。花巻温泉の歴史と自らの体験談、訪れた方々の思い出などを、花巻温泉内を実際に歩きながらお話ししていただきました。



花巻温泉に40年間勤務

 私は昭和44年から平成21年まで、39年と3カ月だったかな。40年近くお世話になりました。国際興行になる前からお世話になってました。花巻温泉が次々と建物を建て替えていく様子を見てきました。全部見てます。ホテル花巻は昭和49年、紅葉館は54年ですか。



昔の佳松園のこと

 佳松園は昭和39年に開業した旅館なので、花巻温泉の旅館として一番最初の旅館ですね。昭和39年に出来た建物を平成11年に全面改修して、全く新しく造り直したのが今の佳松園です。当初の佳松園は建築業協会賞をいただくような素晴らしい建物でした。

 佳松園には私も1年間勤務しました。昭和46年かな。国際興業になる前。その頃はフロント係っていうのはなくて、帳場さんって言ったんだけど、支配人がおって、次の主任さんがおって、もう1人が駆け出し。私は駆け出しの3人の1人だったんですけど、3人で24時間。3人で交代し必ずフロントに居るように。よくやったもんです。今考えると、労働基準法に……。どこの旅館もそうだったんです。

 佳松園が出来る前はグラウンドになってたんですよ。要するに運動場。広場になってます。戦前には、軍事教練する学生たちが来たり、稗貫郡下の運動会をやったりするそういう広場だったんですね。そして、戦後クレー射撃場、今はあっちの湯口の方にあるんですけど、その前身はここにあったんですよ。

 この温泉一体を称して、古い人達は花巻温泉のこと「遊園地」っていうんですね。遊園地って言うからには、遊具とかもいっぱいあった。今のディズニーランドのようなもんですよ。



昭和天皇、散策のエピソード

昭和45の年岩手国体の折に、(昭和)天皇皇后両陛下が前の佳松園にお泊りになられました。そのとき、陛下が散策されたんですよ。1時間30分予定で散策に出かけられたんですけども、なかなか帰ってこられない。警備の人たちは寸分違わず必ず帰ってくると思って待ってた。

 天皇陛下は植物が好きでしたから、村井三郎という当時の植物学者さんのご案内で、「これは何ですか」とかね。時々立ち止まるもんだから、時間がオーバーしたんですよね。珍しいんです。2時間かかかったらしいんですよ。でね、(予定時刻より)30分経っても戻って来ないってことは、何か事故があったんじゃないかって騒ぎ始めた。

 ここを歩くだけで(植物が)300種類あるって言われてますね。有名な話があるんです。「村井、それじゃこれは何」(陛下)。「それは雑草です」(村井)。そしたら天皇陛下は、なんておっしゃったと思います。「雑草という草はない!」。村井さんが真っ青になって。(陛下が)「植物には全部名前がついてる」(とおっしゃった)。そういう逸話がありますね。



南斜花壇とバラ園

 昭和35年にバラ園になる前は、宮沢賢治が南斜花壇として開発した。この山には今でも、その痕跡が残ってます。昭和2年には南斜花壇ができた。そして昭和6年には青森の営林局と提携して、花巻温泉大植物園、天然植物見本園。それから高山植物園、薬草園、こういうものを次々と開設してったんです。ここ一帯には高山植物があったりします。今でも、そのとき持ってきて植えた植物があるんです。今は山からそういうこと(高山植物の移植)は、できないと思うんだけどね。そういう花壇もあったんです。



国際興業の経営へ

 昭和47年に国際興業に入ることが決まって、国際興業が資本統括して最初にできたのがホテル花巻。500平米の大ホール、出来た当時は野球の試合に使うんでないかと思うくらい広く感じましたね。今の千秋閣は、その倍くらい1000平米。



小佐野賢治像と彫刻家・圓鍔勝三のこと

 ここ(バラ園内)に賢治さんの像がありますが、賢治は賢治でも小佐野賢治さんですね。小佐野賢治さんは、ご存知の通り国際興業のとき、ロッキード事件の「記憶にございません」で有名になりました。有名な実業家の方の胸像です。

 像は彫刻家の圓鍔勝三(えんつば・かつぞう)さんという方がお造りになった。圓鍔さんは、実際に花巻温泉に2回も来てくださって、建てる場所もご覧になったり、建てる前の花巻温泉の雰囲気なんかも、つぶさにご覧になって帰られた。その都度、私もご案内しました。早くから卓抜な才能を発揮し、帝展・文展・日展などに数多くの優作を発表した、日本彫塑界の重鎮です。この像は文化勲章を受章する直前にお造りになった。文化勲章受賞は昭和63年ですね。小佐野賢治が亡くなったのは昭和61年ですから、亡くなって、2年後にはこの胸像ができた。

 私は小佐野賢治さんのお宅に招かれてご馳走になった一人です。とても事業家としては大変な方でしたけど、私ら社員にとっては、とても好々爺。「飲め、飲め」ってね。自分は一滴もお酒飲まない方なんですよ。仕事上は、飛ぶ鳥も落とすと言われた田中角栄の「刎頸の友」なんて言われた。私らはそっち(政治)の世界のことは分かりませんが、我々社員にはとってもね、いい会長さんでしたよ。



花巻温泉内にある様々な碑について

●追分の碑

「右ハ山みち 左ハゆのみち」

 花巻市の指定有形文化財で一番古い。1697年て言うから、もう三百数十年も前のものです。右は山道、左は湯道。つまりあの山を目掛けて右に行くと山。右さ行くと山道で迷っちゃうよ、左に行きなさい。湯さ行くなら左。湯治場、台温泉。今でいう道路標識。花巻で一番古い道路標識です。

 かつて、この辺は松山寺の手前にあったんだそうですが、転々として、私が入社したころはもう少し下のほうにあった。再開発で動いて動いて、ここに落ち着いています。その頃は、(現在地に花巻)温泉がなかったわけですね。


●金子兜太の句碑

「花の牧 赤松林の 月の出に」 金子兜太


 現代俳句の金子兜太(かねこ・とうた)さんの作品。金子先生は、まだ活躍されております。岩手県で国民文化祭があった平成5年に、花巻温泉は川柳、俳句、短歌の会場として貸し切りだったんです。俳句の関係者がいっぱい全国から集まった。撰者でおいでになった金子兜太先生が、花巻温泉のために作ってくださったんですよ。

※金子兜太/俳人・大正8年、埼玉県生まれ。加藤楸邨に師事し、その後「海程」を主宰。現代俳句の騎手として活躍。


●与謝野晶子・与謝野寛夫妻の歌碑

「山あまた まろき緑を重ねたる なかに音しぬ台川の水」 与謝野 寛
「深山なる かじかに通ふ声もして 岩にひろがる釜ふちの滝」 与謝野晶子

 与謝野鉄幹と与謝野晶子ご夫妻が、昭和6年に北海道で啄木のお話をされた講演の帰り、花巻温泉にお寄りになって、詠んだ歌が13ぐらい残ってます。昭和6年6月7日、啄木の足跡などを巡る北海道旅行の帰途、花巻温泉に立ち寄って今の松雲閣にお泊りになりました。


●下村海南の歌碑

「山の秋の 水はさやけし とちの実の 水底ふかく 沈めるが見ゆ」 下村海南

 下村海南(しもむら・かいなん)は、和歌山県の生まれで、ジャーナリスト、政治家、歌人でもあった。逓信省に入所して、後に朝日新聞社の副社長や今で言うNHKの会長などもお勤めになって、終戦間際には国務大臣兼情報局総裁でした。この人は歌人であって「心の花」に所属する歌人としても知られている。

 なぜここに下村海南さんの歌碑があるかというと、温泉ができた当時は、台新温泉、台遊園などとも称されたのですが、下村海南さんは、いずれ花巻にも今の東北本線の急行列車も停まるようになるんだから、「花巻の町の名前を付けたらどうですか」って進言してくださった方なんですね。

 (社長の)金田一さんは印刷物を作って、あちこちに宣伝し始めていた。当時の台遊園あるいは新温泉、それを全部下村さんのご意見を入れて、「花巻温泉」という名前に変えたんです。大正13年になります。事業は大正11年から始まって、12年には花盛館も営業しておったんだけども、その話を聞いて印刷物を全部捨ててしまって、新しく「花巻温泉」としてスタートしました。下村さんは金田一国士さんが亡くなった時に、(金田一国士社長を)素晴らしい柔軟な考えの人だったと褒めてくださった。

※下村海南(本名・下村宏)/明治8年、和歌山県生まれ。東京帝大から逓信省に入省。台湾総督府の長官などを経て、朝日新聞の副社長、日本放送協会会長などを歴任。玉音放送に立ち会ったことで知られる。佐佐木信綱主宰の竹柏会に入会。川田順、九条武子、中村憲吉、土岐善麿らと親交があった。


●巌谷小波の句碑

「大釜や 滝が沸かせる 水煙」 巌谷小波

 巌谷小波は、たくさんの昔話を集めたので有名な方です。みんなここ(釜淵の滝)に来て泳いだんですね。子どもたちは尻滑りしたりしてね、そこに草がいっぱい生えてるでしょう。以前は全然なかったんですよ。つるんとしたね岩盤でして。釜淵は釜を伏せたようなところから来てるとか、釜の淵のように深くなっているとか、そういう意味合いがあるそうです。釜をひっくり返したっていう「釜伏せ」が一番近い気がしますね。

※巌谷小波(いわや・さざなみ)/明治3年、東京生まれ。児童文学作家、少年雑誌編集者、小説家。国内外のおとぎ話をまとめるなど、児童文学分野で先駆的な活動をした。


●高濱虚子の句碑

「秋天や 羽山の端山 雲少し」 高濱虚子

 高濱虚子は、昭和8年の8月北海道旅行の帰り、花巻温泉に寄りました。星野立子、中村草田男らが同行し、地元俳人が多数参加して、紅葉館で歓迎句会が催された折の句です。

 羽山は、この辺りの山岳信仰の山なんですが、元々はこの山の上に祠があり、それを羽山神社と称したそうです。今は里に下ろしており、台温泉に行く途中に拝めます。

 羽山は、この句碑の後ろに見える山ですね。羽山、端山……厳山の端に当たる山のことを言います。秋晴れで真っ青のところも、何故か羽山さんの端っこの方には、雲がふわっと浮いていた、なんと神々しい山だろうと、実際に行ってきたかどうかは、分からんけども、そんな風に見えたかもしれません。

※高濱虚子/明治7年、愛知県生まれ。俳人、小説家。正岡子規の俳論を継承発展させ、「ホトトギス」を主宰。俳壇の最有力者として活躍した。


●作句に立ち会った大野林火の句碑
 
「直立に 南部赤松 遠郭公」 林火

 私、この句を作るときに立ち会ってるんですよ。大野林火さんて方は、亡くなったときに、全国紙に写真で紹介されるくらい有名な俳人でした。

 臼田亜浪に師事して、「石楠」を・・「石楠」で活躍した。のちに「濱」を創刊主宰。後進を育成しつつ「俳句研究」という本だとか、「俳句」の編集にも長いこと従事した、俳壇に大変貢献された方ですね。

 花巻に来たときにはですね、後ろを界隈のお弟子さんたち20人くらい、ぞろぞろついて歩く。私が道案内役をかって出まして、ぐるっと2日間にわたって、もちろん園内も含めて花巻の郊外も案内したんす。

 この句を作るときの状況ちゃんと見てます。どこで作ったかっていう場所も分かってます。ジーっとしてね、こうやって座り込んでね、こうして。そうすっと、お弟子さんたちは、静かにこうして後ろで、じーっと立って待ってるのね。あの時、作ったんですよ。

 お帰りのときに、お世話になったって言ってね、ちゃんとあの落款を押してくださって、私に色紙をくださったんですよ。「これ、お世話になったから」って。

 あの後、この碑を整備するときに、その真筆で句碑を建てた。思い出深い句の一つです。


●九條武子の句碑

「まろき山 みどりふかぶかと いくえかも ここのいでゆの ながめすがしも」武子

 九條武子さんの句です。西本願寺の法主の大谷光尊さんの2番目のお嬢さんとして生まれて、九條家に嫁入りされたんですよね。長らく独居生活を送ってます。短歌は、佐佐木信綱さんに師事して、「心の花」で活躍した有名な歌人です。

 九條さんは昭和2年に盛岡で開かれた岩手仏教婦人会の大会でいらした。その翌日、花巻温泉に泊まった。湯、それから山々の景色を大変気に入ってたくさん歌を残しています。そのなかの一つがこの歌。丸い山がぷっくらぷっくらとね、幾重にもなった素晴らしいい温泉だろうということでしょうね。

※九條武子(くじょう・たけこ)/明治20年、京都生まれ。歌人。西本願寺法主大谷光尊の次女。男爵家の九条良致に嫁いだが、長く独居生活を送った。京都女子大学の創設者。



【取材担当】小田島(岩手県立大学)、北村(岩手県立大学)、鹿川、伊藤
最終更新日: 2018年02月10日
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