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2016年6月3日 の記録
柴田 シヅさん【花西地区】
投稿者:ふるさと 遺産研究所
カテゴリー: 土地の人に聞け
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昭和2年生まれ。父親は市内で洋品店を経営していた。戦時中は挺身隊で仙台へ。戦後、ご主人と花巻で最初のスーパーマーケットをオープンさせる。



洋品店と町の思い出

 父親が明治に柴田洋品店っていう洋品屋を。昔は川勝さん、そして柴田洋品店があって、こっちが熊善商店っていう魚屋さんがあって、道路左にこっちが熊新さんって干物の持って歩いたりして。結構魚屋さんに囲まれていたんです。その当時はリヤカーとか、せいぜい四輪自動車だったので。そうすると、魚買いに来た人たちが、何か小間物買いたい場合もあるから、ここ雑貨物とか小間物も売っていたったので、よく近所の人から頼まれて来たとかって、シャツとか足袋とか…昔はそういうのが大事だったからそういうのを買いに来る。私は忙しい時はよく店番をしていました。花巻もこれで、節句とか、12月28日には、町があふれるくらい人が出たったんですよ。



お寺などに薬を置いていた

 昔の在(在郷)の人たちは、いちいちお医者さんには行かないで身近なことで。家伝薬って、富山の薬屋さんみたいなものですね。(上町にある)広徳寺さんでは、子どもがキャーとかキーとか、虫くだしっていいますか、そういう薬を。結局熱を出したときすぐ飲ませて、キャーなんてさかばせないように飲ませる薬。それから相庄さんでは、耳だれ。今でいう中耳炎。いちいちお医者さんに行かなくても、そういうところの薬を家でとっておくわけ。お医者さんも方々にはありましたけど、先にそういうなのをつけて、その場を安心してしのいでから、ひどければお医者さんに連れていくという。



戦時中の学校生活

 17年頃は英語もなかったし。ソネ先生という若い先生だったけど、英語廃止になってがっかりしてました。だけどもやることはいっぱいありました。田植えした人もあったって言ってましたけど、私たちの学年はなぜか宮野目の稲刈りをして。それこそ「こびり」が楽しみで。「今日なんだべな?」って楽しみにして。(腰に)ザルして、ほっかぶりして、田んぼさ入って、鎌持って、今思えばよく切れたなーと。

 勉強は廃止になったから止むを得ない。それを悔しいとは思わなかったけど、ただただ、こういう情勢でお国のためにやるのが当たり前なんだという気持ちで。家さ帰っても、親たちも「ご苦労さんだったな〜」って言って、美味しいもの食べさせてくれるとか。まだ花巻は裕福だったんだね。



挺身隊で仙台へ

 (花巻高等女学校を)ちょうど昭和18年卒業だったんですけれども、国からの命令で岩手県から100人、学徒挺身隊という感じで生徒たちを。先生方は親を説得するのに大変苦労なされたそうだっけよ。親は家から一回も出したことのない娘を、国のためだかもしれないけども、出すわけにはいかないと言って反対したそうです。うちだけでなく。3回目くらいに説得に来たとき、親もだんだんと(戦況も)激しくもなってくるから、やっぱりならなければならないということで許してくださって。

 そして3月に卒業式はやりましたね。一週間くらいの間をおいてから出発ということを国の方からの命令があって、学校の先生方が私たちに渡してくれた書類を見て。半年くらいの荷物類は先に送ったったと思います。みんな同じようなリュックサックを背負って、花巻駅から10人で旅立ったことだけは覚えています。全校生徒に送られて。行かねばよかったとか、断ればとか、誰もそういうことを思わないで、スムーズだったと思うんですよ。ちゃんと駅に集まってたって行ったものだから。家の人たちも理解があったのだし、やっぱりお国の情勢がそうだった。一番そいづだったと思います。私たちはお国のために働いているんだという使命感を持って、悲しくもなんにもなかったです。膨らむような気持ちで。



仙台での挺身隊の仕事や生活

 私たちは、薬莢(やっきょう)を作っていました。鉄砲を撃った時に弾は飛んでいくでしょ。その時に薬莢が残るのよ。それを作っていました。仙台造兵廠で。原町にありましたので、第一工場1000人、第二工場1000人で、2000人くらいはいたと思います。女学生は、岩手の県立女学校から100人。

 お花は習わせてくれました。一番町の寮のところで。仙台はいい方だって言われたけど、そうだったと思います。お休みには、喫茶店とか、お昼のランチとかやっている所が、その時間なれば開くところがあったの。それを誰かに聞いてくれば、モンペ履いて、活動着を着て、休みの時はそこ行って並んで食べてきたり。あと、映画館に『轟沈』っていう映画を観に行って。却って映画観に行った人たちが轟沈になって、眠かけして帰ってきた(笑)。それで大笑いしたことあります。だって疲れているんだ。今と同じって言えば同じかな。(戦時中だから)厳しいことばっかりだと思うでしょうけど、そういう楽しみもありました。



仙台空襲の日

 その空襲の時のことは、午後8時か9時頃に一旦休んだんです。明日は日勤として行かねばねからというので、みんな寝るべと言って。2人ぐらいは夜勤だったからいなかったんです。それで休んで…そしたらなんだか音がするから、「あれ何の音だす?」って誰かが声かけて、ちょうど洗濯場が外にありましたので、そこに誰か出てみたら、大変なようだよということになって。みんな服きちっとして、下で隊長がさかんでましたから、「準備するように!」ということで。そしたらだんだんに音が近づいてきて。あれ相当…100機くらいは来たと思います。それが仙台は1回目で、最後だったんです。一番町にドンと爆弾落として、それから駅に行って駅をくるくると廻って、ドーナツ式に町内さ来たから。そういうやり方をしたんだそうです。ちょうど隣の所に爆弾落ちたんです。地震以上に揺れたったから。

 私は下駄を履いて逃げたんですよ。そしたら、あ、ダメダメって思って戻って、ズック靴を履いて逃げて。ちょうど道路隔てた向かいが白石女学校が入っていました寮がありました。そこの方は、やっぱり戻って、1回着替えするとか、何かを忘れたとかで、遅れて3人ばかり亡くなりました。危機一髪だったんです。

 ただ、行き先(どこへ逃げたらいいか)がわからないから。普段(仙台の町を)歩かないから。出ては見たものの、布団なんかは持っては、焼夷弾が落ちてくるから、そいつをかぶっていればいいと思って、小さい布団なんか持ってくる人たちが、他の一般の人たちですよ。で、大きい道路に出たら、私たちはわからないから、その人たちの後を、隣友だちと逃げて。布団なんかはもちろん投げていきますっけ。逃げられないから。



防空壕には入らず逃げた

 防空壕っていうのは大抵作ってはあるんだけども、なぜか…なぜかって、わたしも実際経験しましたけども、「あそこに大きい防空壕あるずから、そこに入るっか」って、あるお家の裏の方で防空壕に入るんだけども、私には、「出ろ!出ろ!」って誰かがさかんでいるんです。あれ?誰かさかんでる…「今行くから!」って言ったけど、それが誰だかわからなかった。それが3回くらいありました。私はいっそ逃げて、また出て。そしたらちょうど、広瀬川。その頃は広場になってましたから。そこにみんな坂を下りて、着いたのが広瀬川。上に軍隊があったんだもの。青葉城の。それこそ、伊達政宗公のがある所とか。ちょうど私たちは下に逃げらさったの。でもちょうど、厚い壁があって、広瀬川が流れているから、その壁の所に手をつけて。ドンドンと広場の所に焼夷弾が…油脂焼夷弾って言って、ピューってネズミ花火みたいに。焼夷弾だけなら、ただ真っ直ぐ(落ちてくる)だからいいけど、油脂焼夷弾が落ちられると怖かったね。広瀬川の壁につかまって、南無阿弥陀仏を唱えて。そうしているうちに、10分くらいは(敵機が)グルグルグルまわって、だんだん遠くに行って、いなくなったのが、たった一晩だけ。だから一回であんな焼けてしまって。



空襲の後

 市内電車が通ってましたけども…もちろん線路もなくなって。そこを帰りは浮浪者のように歩いて。自分の寮には行かなかったんですけど、工場へ行く道路が榴ヶ岡を通っていくことはわかっていたから、誰か行くからついていくのが精々で、みんな行くから怖くないみたいに私たちはついて。「榴ヶ岡の方に行きたいです」って言ったら、「大丈夫ついておいで」とかって誰か言ってくれるからついていって。そしてこう行ったら、副隊長殿が途中まで迎えに来てくれて、「大丈夫だったか!」ってさかんでくれまして。寮も焼けたことなんだし、一応工場行って、隊長に話をして、すぐ家に帰っていいから、許可書を貰って帰って、また一週間後に帰ってくるようにということを命ぜられまして。(帰る時は)私一人だったと思う。



花巻の自宅へ帰ったが…

 夜に花巻駅着いて。家まで歩いて行ったんです。20年頃はシャッターでなかったから。戸袋だったんです。木の戸があって、ガラス戸があって、お店、という状態だったから。私が帰ってきて…次がおかしい(笑)。家に帰ったら、戸があったんですが、ドンドンと叩いたんです。呼び鈴も何にもないから。そしたらうちの母親が、その戸袋の開かるうちには居るんだけど、開けてくれねのす。さっぱりと。「なんたらお母さん、おれだ!シヅ子だ!ちょっとお母さん!」ってなんぼ叩いても開けてくれないわけ。「なんたらお母さん!見て!帰ってきたんだから!」って言ったら、戸袋のところに、すっと開けるところがあるでしょ?そこ少し開けてて、こうして見てるのよ。そうして後から聞いたら、幽霊だと思ったんだって。仙台で死んでると思ってるから、開けないで。幽霊は足がない。そいづ言って大笑い(笑)。今度、足あると思ったんだって。「あらっ、シヅ子だ!」。そこでようやく戸袋を開けてくれたわけ。

 後で「なんたら!」と言えば、「だって幽霊だと思ったんだ。来るわけねんだもの。死んだと思ってるんだ。でも、確かに足があるって思ったから開けたのだ」って。でも止むを得ないことだと思うんです。もう死んだという噂がたってるもんだから、来るわけないと思ったんだ。仙台全滅という情報ばっかり聞いているから。とにかく全滅みたいなもんだったから。生きて帰ってくれたことに対しては、うんと喜んでくれましたった。よかったと思います。仏様に守っていただいて。



再び仙台に戻り、終戦を迎えた

 またリュックを背負って、着替えを持って。帰ったのが終戦ちょっと前だったから。その時は、寮も別な、原町の広間借りて。住むなんてもんじゃない。靴履いて、これ(肩にさげるジェスチャー)をして、防空頭巾は必ず枕のすぐ側に置いて、そしてこういう風な感じで、外側の方へ足を出して。靴は履いたまんま。身体のだけは畳の上に、こんな感じで。それで一週間くらいそうしているうちに終戦。



花巻で最初のスーパーマーケットを始める

 結婚して8年間洋品店を夫婦で手伝いました。うちの旦那さんも、向こう町で機械で羊毛やってたったんです。機織り。兄貴は男の子3人だから、PTAとかなんだかでしょっちゅう出掛けねばね、あと会議所の役員もしてたったっけから。そうすれば、私と旦那がいることによって、私は女の方とか、従業員が5人くらいいたったから、売り子さんたち、手伝ってもらってたったから。その当時は8年間はおかげで兄貴のためにお手伝いしました。

 それで、ちょうど私たちもだんだんに別にならねばねんだっていう話が出て、もしあれするのだったら、同じ花巻じゃなくに、大船渡だったかな、その当時。大船渡にお店にするような所があるっていうから、そこにもし行くんだったら、行ってもいいっていう兄貴からの要望がありましたんで。

 そしたっけ、うちの、男だから、「や、私は考えていたけど、今ちょうど、新しい商売で、スーパーという商売を…」。一戸さんで始めた時だったんですよ。盛岡の今のジョイスで。昭和33年にジョイスが始まった時だったんです。(私は)何でもいいから、(夫が)考えたのさついていくからって言って。そして昭和34年になってから、一戸さんも去年始めて、いい成績でやっているようだから、私たちも頑張ってやったらなんとかなるということで、それから踏み出したんです。



新しい商売を始めるのは大変だった

 そしたら、どっこでも、「売りません」とか、市場でも、卸屋さんもどっこでも売らないということだったの。ただ、高民さんっていう豆腐やさんと、大内納豆さんは「頑張っておやりんせ!何とか私ども出来るだけのことはしますから。」って力付けてくれたのよ。

 それから私、ねんねこ着て、一戸さんの事務所に乗り込んだの。全然知らない所に。そしたらたまたま一戸の会長さんが事務所にいたったんです。そしたっけ、その会長が、「どこの姉っこ来たべなー。わらす背負って、ねんねこ着て事務所上がってきたけど」って思ったんだって。びっくりしたったって言ってたっけ。それで、実はこうこうこういうわけで、花巻ではどこでも売ってくれませんので、なんとかおたくで成績もあげているようだし、私たちもかまどになるためにやりたいと思いますので、本当に不調法で申し訳ない、初めてですけどよろしくお願いしますって頭下げたのす。私若かったから、会長もびっくりしたんだっけ。それが始まりで、大笑いのものだったの。



たくさんの支援があって開店

 そして昭和34年の5月17日に開店した。そして皆さん紹介してくれるのさ。盛岡ではたまたま市場の野菜の方の仲買人というのがあるのさ。マルゴさんって大きい市場があったから。マルゴさん、集金にちょうどおでっている人がいたったのす。そしたら、「ここにちょうど今日佐々木さんがおでるから、ちょうどいい所さいた。まず、わらすっこ家さ入ってコタツさおろして寝せてこ。それからゆっくりしゃべっておけんだから」って言われて(笑)本当に快くそうしてもらって。まず私も必死になってお願いしねば。なんとか協力お願いしたいということで。そうしたら佐々木さんは、「よがんす。おらいで弟3人いるから、ちょうど3番目のヒロシを花巻の方さやるようにします」って。商売の外商に日詰くらいまでは来ていたんだって。だから(足を)のばせば花巻にはすぐ行けるから。やりますって。そうしているうちに缶詰でもなんでも、色々皆さんも、大地主さんの声がかりなら誰も言う人なかったんで、おかげで商品はもういいと。魚屋は…やっぱり盛岡だった。最初は。そのうちに、何ヶ月も経たないうちに、うちから買ってください、うちから買ってくださいってくるようになったんだよ。本当に腹塩梅が悪うございましたけども、それが世の習いだなということで。おかげで、ここまで来て。ありがたいことだと思っています。

 「丸昌」という名前で。昌は父親の昌二郎さんだったんです。その昌を取ってやるべとうちの旦那の申し入れで。ちょうどいいんだと。丸昌っていうのはなんとなく繁盛するような感じしたったから、いい名前だということで、賛成をして。それから発足しました。



店の思い出とこれから

 本当に流行って流行って、物出すのも出されねくらい。シャッターを5回ぐらい。入られないわけなんです。一回あんまり混んでしまえば、(シャッターを)上げて、「お買い物どうもありがとうございました」ってあれして(お客様を外に送って)から、また別なお客様方をお入れして、買っていただくという風な方法を採らねば、ギシギシとつまったって、物も買えわえね、カゴにも入れられね状態なんだもんす。申し訳ねけど。でも誰も怒る人いなかったから。「すみませんでした」って言えば、「いいからいいから」って言って買っていただいたのが本当にありがたいなと。商売するのに。好きだったんだ私は。

 また、父親の教えが良かったから、教えの通り。「おめが知らなくても、あっと思ったらば、お辞儀して歩くんだ」それを、娘たちは大っ嫌い。「母さんと歩けば頭下げて歩かねばね」って言われて。皆さまサラリーマンさ行きましたから(笑)。(丸昌ストアは)30年くらいはやりましたよ。昭和34年からだからね。オーバーだったらごめんね(笑)。丸昌の会社は今でもあれしていただいてますので。まあ先のことは、私もこの通り年齢も年齢なので、兄弟たちが一生懸命やってくれること頼んで。



一番好きな食べ物の話
 
 私好きなのは、お魚だけど、きんきん好きだったー。一本こうして焼いてなは。だけど、それはお商売して得られているからであって、嫁に行ったらこういうことはできることじゃないから、贅沢言っちゃダメなんだぞとよく言ってましたっけ。



【取材担当】伊藤、柴田
最終更新日: 2018年03月09日
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