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2016年7月21日 の記録
押切 郁さん【花巻中央地区】
投稿者:早川峻介
カテゴリー: 土地の人に聞け
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昭和4年、水沢生まれ。水沢女学校在学中、学徒動員され川崎市の工場に。空襲の中、教師らのはからいで、奇跡的に岩手に帰省。戦後は教師となり、花巻農業高校などに勤務。その傍ら照井謹二郎氏と共に、ユネスコの活動や農学校跡地利用の運動に携わります。学徒動員と教師時代、また社会活動の思い出を語っていただきました。



戦争末期、学徒動員で川崎市へ

 水沢の空襲は、駅前がちょっと倉庫がやられたくらいで、花巻みたいに町はやられてない。私は(水沢女学校在学中に)学徒動員で、(神奈川県の)川崎に行っていたから、毎日空襲だったよ。グラマンが低空飛行で来るの。日本は全然戦力がね、勝てない戦争をやっちゃったのが間違いよね。毎日毎日、空襲で逃げてたよ。

 私は事務だったから何も造ってない。みんな全部旋盤とか。いろいろ部署が違ってた。事務だったから、なんか「お国のためになってない」と思って、つまらなかったね。何か飛行機を造るような仕事をした方が役に立ったような気がしたけどね。でも、(川崎にいたのが)昭和20年の2月から4月だから機材がないのよ。だから暇なの。現場に行っても、あんまり大したことやってない。



お国のために

 その当時、私たちがちょうど14歳。女学校の3年生。今とちょっと学制が違うから。昔は6年生までが義務教育で。6年生から受験して女学校に入るんだよ。男子は中学校、女子は女学校ね。だから6年生で受験なんだよ。入学試験受けて入ったにも関わらず、勉強しなくていいんだなんて。14歳以上の学徒と学生は、一年間授業停止。そして軍事工場で働くって文部省命令だよ。

 私たちは幼いときから、もうすっかり洗脳されているからさ。「お国のために」って、そういう思いで川崎まで行ったよね。昭和20年の2月。東京が毎日空襲にあっているような時だよ。都合悪いことは知らされない。今もそうだけど、隠蔽してるでしょ。

 親たちは知っていたと思うんだけど。そんなところに14歳の娘をやるなんて誰も賛成しないけども、ノーと言えない、というのが戦争だ。その当時の親を思うと、本当に苦労したと思う。



東京で見た戦争の現実

 東京に初めて行くのでしょ。ウキウキして行ったのよ。何にも知らないから。東京に着いたときは、修学旅行みたいな気分で。そうして上野に着いたら、だんだんに汽車の窓がピンクになったの。「東京の空はピンクなんだね〜」って言ってたら、だんだんだんに、それが真っ赤になってきたからびっくりして窓開けて外見たらね、一面火の海だよ。空襲にあってたの、その日。でも上野駅はやられないんだね。そういうのちゃんと見てやってるんだね。

 一般の家庭が不思議にメラーっと焼けているんじゃなくて、一軒一軒から火が出てるの。それがズーっと見渡す限りなの。右も左もこっちの窓もこっちの窓も。それ見て、「これが戦争の現実だ」と、その時初めて気がつくんだよ、私たち。恐ろしかったね。

 そうして駅に降りたら、煤けたような顔して、ボロボロの着物焼けた人だの、死んだ赤ん坊抱いたお母さんとか、もう半狂乱になった人とかいっぱいでね。



95人の勤労動員とは

 私たち95人も列をつくってなんか歩けないで、こうやって(人の間を縫うように)。そして、8班に分かれて。私一番最後の班長だったの。だから一番最後に行かなきゃいけない。遅れられないし、みんなも遅れる人がないように見なきゃいけないし、私も遅れられないし。こんな人混みの中で。そしたらね、私の名前を言ってね、「私を置いていかないでー!」って言った人がいて、あれ?誰か残してきたかしらと思ったらね、女の先生だった(笑)。その先生をぎゅっと引っ張ってね。結局その先生最後までいなかったよ。でも、あんまりそんなこと言えないから、言わないけども、私たち捨てられたの。

 私たち2クラスしかないのよ。その頃はね。全員で本当は40人くらいずつだけども、疎開者が増えて95人くらいなってるのね。それで、担任が2人しかついていかないのよ。100人近くの生徒をたった2人の先生で、しかも男の先生1人、女の先生1人でしょ。その女の先生がその通りでしょ。だから男の先生1人だけ。でもその先生が素晴らしい先生だったから、結局的には逃げて帰ってこれた。助かって。

 工場がやられたの。毎日毎日、空襲で仕事なんかできない。防空壕に走って。それも20分も30分もかかるところを走って歩くのよ。そういう話を今の人に話すとね、「だから押切さん丈夫なんだね」って言う人いる。ちょっと観点がちがうんじゃない(笑)。それもあったかもしれないけど、だってこっちは命がけで必死に走って…健康のために走ったわけじゃないんだよ(笑)。そういう体験はしましたよ。



先生の判断で奇跡の帰郷

 工場も焼けたし、私たちは焼け跡の整理をした。それでも毎日空襲でしょ。先生が私たちの命の危険を感じ、結局、先生の判断で、独断で脱走してきたというか。だって、そういうことできないんだもん。でも一応はお願い出て。

4月の末になれば、あっちの方(関東地方)は暑いでしょ。だから(生徒たちを)着替えさせるために、いったん、(岩手に)帰校させてください、って頼んだ。冬着のままで来ているからと……。

 先生が神奈川県の県庁に行ったり、いろいろ奔走したけど、国賊だとか何とか言われるわけよ。だからもう自分の独断ですると……。男の先生が、よっぽど(生徒たちを帰省させる方法を)考えたと思うよ。でも、絶対に許されなかった。だから、「自分(先生)の独断で帰るから、絶対秘密を守れ、先生の言う通りにせい」って(生徒たちに)言って……。だけども、その当時、汽車の切符なんか手に入らないのよ。

 それがね、切符を手配できたというのは、今もよくは分からないけど、そういう中で、私たちが脱走することに、陰で協力した人がいるんだ。最後には東京鉄道局。そこで95人分の切符が手に入った。それは奇跡。不思議なのよ。それには陰でね、協力してくれた人がいたのだろうけど、それは表に出さない。それでね、満員の汽車じゃなくて、ちゃんと座って帰ってこれたの。昭和20年の2月に行って、4月に帰ってきた。ちょうど2カ月間。



花巻農業高校に赴任

 高校に勤めてたから、こっちの学校に転勤しました。花巻農業高校でした。昭和36年から。賢治さんが教えた学校で、とてもいい学校でしたよ。(教えたのは)家庭科。

 その頃の農学校(花巻農業高校のこと)は、今の文化会館(がある場所)なんだよ。賢治さんが勤めたところだね。その頃は桜並木もあった。道路沿いがずっと桜だった。みんな切られたでしょ。



花巻農業高校の卒業式

 (赴任した花巻農業高校は)賢治さんの学校だから誇らしかったよ。私、その前は水沢高校に勤務していたから。(水沢高は)進学だのなんだのとうるさかったけど(笑)。(花巻農業高校は)そういうことはなくて、楽しく勉強して。農業科、園芸科、食品科学科とかあったけど、農業科の生徒は農家の長男が多いから、大学に入るってことも少ないし、農家を継がなきゃいけないような感じ。

 卒業式のときに感激したの。水高だと進学のことが先で、受験のために卒業式に欠席も多いのよ。さっさと卒業して、次の方へという感じだけど、農業高校の生徒は、ここで学校生活が終わりがほとんどでしょ。男の子が泣くの。こっちももらい泣きしてね。これから厳しい生活に入るんだな、なんて思ったりしてさ。今もそうだけど、農業って厳しいでしょ。そういう世界に、この子たちこれから行くんだなと思うと、こっちもなんだか胸が…ね。それを思い出します。



照井謹二郎先生

 照井謹二郎先生って分かる?うちのすぐ近くだった。御田屋町。ここの道路側にね、湧き水が出てたの。年がら年中ちょろちょろ流れてたの。夏は冷たくて、冬は温かかくて。お洗濯するにもよかったし、みんなそれを使い水にしてたの。ずっと流れっぱなしだったからね。それを謹二郎先生が木桶を天秤で二つ担いで、水を汲んで、使い水にしていた。まだ水道がない時代だから。
 
 ここの通り、お寺があるでしょ。その辺に住んでいたから。先生は夕方になるといつも水汲みしてた。私の主人の母がね、「あの人はね、ああいう風にして天秤担いで水汲みしたりしているけど、本当は偉い人なんだよ」って言ってた。

 本当に偉い人だったんだよね。宮沢賢治の教え子で、生涯賢治さんのことを顕彰したというか、賢治さんの精神を伝えた人。売名行為だって悪口を言った人もいたよ。だけど、あの方はそうじゃない。



賢治子供の会と花巻みなみ幼稚園

 戦争が終わってからも、近所の子どもたちがチャンバラごっこをしたり、戦争ごっごをしたりして遊んでいる。それで、子どもたちに健全な遊びとか、健全な子どもの文化をと思って作ったのが、「賢治こどもの会」なのね。45年くらい続いている。賢治さんの作品を子どもたちが劇で演ずるという。それをずっとなさってたんです。

 それと、うちの息子が昭和35年生まれで、3歳くらいの時かな、(謹二郎先生が)みなみ幼稚園をつくったの。うちの息子は第2回生なの。それで、登久子先生って、奥様が募集に来たったよ。あの時は父兄会っていったかな。保護者とその時の幼稚園の先生が、一つのグループになって合唱団(花巻ユネスコ・ペ・セルクル)をつくったの。それが今年(平成28年)50年なったの。みなみ幼稚園から始まってる。



花巻ユネスコ協会の設立

 その頃に、照井謹二郎先生が花巻ユネスコ協会をつくったの。(ユネスコ協会の)設立は、花巻がうんと早いわけじゃない。水沢とか盛岡は、とっくに出来ていたんだけども、ある時、盛岡でユネスコの集まりがあるというので誘われて、まず行ってみたの。どういうことだべなと思ってね。すでに(陸前)高田の方に出来ていたのよね。高田の会長さんが立ってね、「賢治の町にユネスコ協会がないというのはおかしい」って言った途端に倒れたんだって。そして、その人、死んでしまったの。本当に。

 そういうことがあって、謹二郎先生も、ものすごいショック受けて。自分が賢治さんの教え子でしょ。そこからユネスコの精神っていうのは、教育、文化、科学……なんていうのかな、戦争をなくすこと、平和のためには、政治・経済だけじゃダメだとね。芸術とか文化、教育っていうのが、ユネスコの……。UNESCOは、United Nations Educational Scientific and Cultuiral Organization。その頭文字を取っているのがユネスコなのね。

 (謹二郎先生が)ショックを受けてということもあるし、やっぱり賢治先生を非常に敬愛していたから、「賢治の里にユネスコの火を灯そう」ということで、ユネスコ会館をつくることに尽力された。

 私は準備会から関わった。ユネスコ協会が出来た。つくるために1年くらいかかって、昭和50年の前にユネスコ協会が出来たの。それと同時に、さっきのメンバーで合唱団をつくったの。

 合唱団をつくったことの意味を私は深くは考えなかったの。けれども、いろいろ賢治に関わる活動をしてるうちに、謹二郎先生がなぜ一番先駆けて、事業の一つとして、合唱を始めたかという意味は、自分が敬愛する賢治先生が非常に音楽を愛した方でしょ。音楽を愛した、音楽に愛された、そういうことをよく知っていらしたから、賢治の精神とユネスコの精神と同じことだ、賢治さんの愛した音楽は、ユネスコの活動には大事なものだというお考えだったと後から気がついた。

 私たちは趣旨が賢治さんと繋がっているから、はっきりしているからこそ、今まで続いたと思うし、ユネスコ協会という親協会の支援もあったから50年続いたと思うよ。



農学校跡地利用の運動と「ぎんどろ公園」

 ここ(現花巻市文化会館周辺)に、賢治さんが勤めた学校の跡地だということと関連付けるために、文教施設を作ろう…「文化会館とか図書館とか、そういう施設の場所にしよう」って、運動したんだよ。そういう場所にしないと、何にも残らないから。でなきゃ、一般のお家がいっぱいあそこに建ってた。そういう運動がなければね。

 私、その時の請願書みたいなのを持っているけど。ユネスコ協会もそうだし、あとは婦人団体とか、いくつかそういう団体(が中心になって運動した)。戦後は活発だったのよ。運動して今のようになった。それも歴史だよ。やっぱり謹二郎先生なんかも、先頭に立ってやったと思う。

 大きなぎんどろの木もあるでしょ。賢治さんがとても好きだったんだって。ここに農学校があったよって、「ぎんどろ公園」とね(名付けた)。

 そこに「早春の広場」っていうのがあるんだよ。それはユネスコがつくったの。「青きgossan…」っていう碑があるでしょ。碑の所に白樺とか植えて、「早春の広場」っていうのをつくったの。でも、あの碑を建てたのは同窓会だよ。今の人たちは最初から、ああいう風になっていると思ってるでしょ。そうじゃないんだよ。運動してああいう風になった。



賢治さんが生まれた町なんだから

 賢治さんが生まれた町なんだから、もう少し文化・芸術ということについて、もっと関心持って欲しい。賢治さん自体も、みんなに認められなかったでしょう。今でも変わり者くらいにしか思われてない。だから、生きづらかったと思うよ、あの時代。

 賢治祭に集まる人、今でも花巻の人、あんまりいないんだよ。遠くから来た人ばっかりだよ。委員会をしていたけども、ある時期、どこから来たか県を調べたの。ほとんど全県(全国)から来てる。沖縄から来た人、北海道から来た人もいたし、日本海側の富山県からも来ていたし、ほとんど全県から来てたの。なのに地元の人は、はっぱりいないんだよ。だからね、そういう所で賢治さんは、あれだけのことをやったら、ずいぶん生きづらかっただろうなと思うよ。でも人に認められようなんてやったわけじゃないから。でも苦しかったと思うよ。



【取材担当】伊藤
最終更新日: 2018年05月07日
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