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2011年12月5日 の記録
小田島章雄さん【湯本地区】
投稿者:早川峻介
カテゴリー: 土地の人に聞け
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台温泉の歴史と性質について語る「かねがや旅館」のご主人、小田島章雄さん。古文書から読み解く南部藩との関係、大地震直後は一時的に温泉が枯渇することなど、やや専門的ですが、興味深い内容です。



南北朝時代の年号

 台温泉の発見には諸説あるが一応言われているのは、元中4年(1387)とか。元中とは南北朝(時代の年号)じゃないですか。しかも南朝年号ですね。おもしろいですよ。北朝年号使っているところもあるからね。円万寺観音の上に、「正慶の碑」ですか。北朝年号ですもんね。その頃の、要するに稗貫氏関係時代の、ここは南朝についている時期もあれば、北朝についている時期もあればっていうね、大混乱の時代ですよ。



7軒の住居と温泉神社

 台温泉は、天保まで7軒しか住居を構えてはならないという規則があった。その規則を書いた現物はないんですけども。実際7軒しかない。それとプラス2軒というのがあって、それは南部藩の官舎。

 花巻城の城代家老の日誌『南部藩家老席日誌』に、「近江商人が台へ湯治に行った」というのが載ってる。すでに南部藩の奥様が湯治に来ていることが「年契」(※)とか、日誌みたいなかたちで記録されているわけですよ。

 その中に「かねがや旅館」のすぐ隣にある温泉神社。古い温泉場には全国どこにでもある温泉神社。ほとんどが祀ってたのは薬師如来ですよ。それが明治の廃仏毀釈で持ってかれたんですけどね。書き物に出てくるのは湯神堂として。あるいは湯前堂のどっちかで出てきます。

※年契 2国以上の歴史上の出来事を年代順に対照して記した年表



「台温泉一見記」に書かれていること
 
 現存する『台温泉一見記』(松井可敬)は享保16年(1731)に書かれた書物で、これが台温泉に関わるいろんなことが書かれた最初の本です。現物を持っている人も温泉にいるんですけど、これは寛政11年頃に写した写本で、原本はないですね。私の考えだと。享保16年に書かれた写本。

 江戸時代の270年くらい前になりますかね、その頃の源泉は、ここ(『台温泉一見記』)に書かさってあるんですよ。それ以上の資料ないもんだからね。簡単に言うと、「上の湯」「中の湯」「鉢の湯」「箱の湯」「瀧の湯」、5つの湯があった。それから、殿様専用の「止めの湯」。殿様が何回となく、お袋さんが来たり、そういう時にね、一般開放をやめて止める。その時だけという解釈と他の人はもう入れない。貸切ですね。その後、「中の湯」は明治になって、大湯と言うんですよ。これが冨手旅館の源泉です。鉢の湯はあった場所が不明。箱の湯は、その後枯渇。「瀧の湯」、場所も特定できるもんね。一つだけわからないのが「鉢の湯」。これが場所はどこだろうというのです。

 殿様が来た時に泊まる場所は、「御仮屋」(おかりや)って呼んだ。これははっきりしてるんだけども、南部3代目の重信が来てるあたりは、今のさなぶり荘のところです。そのあと、利視公のあたりなると、今の楽知館ってあるんですけど、下の広場というか駐車場になってる辺りですよ。図面上はね。その前はもしかしたら、冨手旅館の辺りも御仮屋となってた可能性もあります。動いてるのね。江戸の殿様が来ている頃からずっと続けて旅館っていうかをやってるところはね、今のこの旅館の中ではなくなってる。残ってるとすれば、水上旅館。もともとが旅館やってたのではない可能性があるからね。



湯守一族だけの部落

 ここは、もともとは小瀬川一族の所なんですよ。稗貫から南部に変わった時に、湯守に小瀬川徳右衛門というのが任命されたんです。ここは一般の人がいなくて、湯守の一族だけの部落だったわけです。湯守ですから、普段お湯を管理してて、殿様や藩の重臣が来たりするときの世話役なわけです。ですからお湯の側に住居を構える必要があったんです。その後入ってきたのが、佐藤と冨手、うちの小田島だべなぁと思いますね。佐藤と冨手どっちが早いかはよくわかりません。湯守の鑑札あるんだどもね。今、現存してるのは、明治になって盛岡県から出されたものです。



台温泉までの「道しるべ石」 

 享保16年の浅沢から台温泉までの道のりも書かさっている。花巻北高の方に坂登って、踏切超えて、花巻北中学校の敷地内を横切るかたちで、瀬川橋の方に。そして、宮野目の千屋ってあるんですよ。台村を治めていた高橋駿河守の末裔ですから。湯本の高橋一族の末裔。松山寺過ぎるとまもなく、道路が二又にわかれて、そこに追分の石ありと。追分の石ってね、道しるべ石。合併前の花巻市内に49かな。いろいろ全部でね。その中で台温泉に関わる道しるべ石は20。

 今、ホテル花巻のあそこにありますが、本来あんな所じゃないですからね。それぞれ解釈はいろいろだけど、私の考えだと、元の街道は浅沢から踏切超えて狼沢を抜けて、松山寺の前に出る道路なんですよ。松山寺の前から今度花巻の方から来ると、ちょうどお寺の山門の前のあたりから右に入る細い路地あるんですよ。そっちが元の湯本の役場あった所ですけどね。そこを行くと、やっぱり道路が二つに分かれるんですよね。私らガキの頃は、「分かれ道」という場所で。そこだべなと、私は解釈してましたけどね。



宮沢賢治の「台川」

 宮沢賢治のことで話さねばなくって、ちょこっと調べたとき、十何年ぶりに宮沢賢治記念館に行ってきた。彼は地質学者だから、稗貫郡の土性調査をやって、その時に台川も調べて「台川」(※)という作品があるのね。そして、そのときに台温泉に来て泊まった。どこに泊まったかというと、当時の旅館は、今は営業してない。ただ泊まったってだけだね。宮沢賢治も、台温泉に関わる作品を一つくらい残してくれれば良かったのに(笑)。

※「台川」 野外授業風景を題材にした宮沢賢治の小説。台川周辺の地形と地質の描写を織り交ぜながら、教師が生徒に語りかける手法で書かれている。



高温泉の熱源

 台温泉で90度を超える高温泉出るのが不思議に思われて、昭和43年調査となった。岩手大学の調査です。ボーリングをしなくても、温泉が自然に湧いてるということは、必ず断層があって、裂罅(れっか)って言って、岩盤の亀裂があって、地下の熱源になる岩盤が流紋岩。これが熱源になってるということです。台温泉の場合、これが地下水をお湯にしてる。結局ね、山そのものが熱源になっているっていうの。熱源があるだけじゃダメで、3つくらい条件揃わないとね。まず熱源の岩盤がないと、どうにもならないですよ。台温泉でお湯が湧くのは川筋です。低い所にお湯が湧く。「花巻温泉台温泉地域地質図」は、けっこう貴重な資料なんですよ。



東日本大震災で一時的に枯渇

 明治の内陸地震の陸羽地震(※)。あの時に、ここの湯が3日間止まったと聞かされていた。明治の時は1週間くらいで回復したようです。今度の東日本大震災の時ね、台温泉の半分ぐらいがストップになって、3日経っても上がってこない。1分間に120ℓ湧いていたのが完全にゼロでね(1分間120ℓ=水道の蛇口10本1分間全開)。それで岩手大学の齋藤徳美名誉教授の研究室に相談に行ったんです。

 「何もないところに、1500mもボーリングして湧いてる温泉の場合は、枯れる場合も珍しくないけども、自然にこのくらいの熱源のあるところが、全く枯れるということはないでしょう。時間かかるけども回復します」ということでした。

 今回は回復するのに3カ月くらいかかりましたが、このくらいの熱源の分布のところで、お湯が止まるってことは、まずないでしょうという見解で、私らとすればありがたい話です。

※陸羽地震 1896(明治29)年8月31日、岩手・秋田県境で発生した直下型地震。横手周辺で建物の倒壊などにより多くの死傷者が出た。 



【取材担当】鹿川、丹後、伊藤
最終更新日: 2018年06月18日
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