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2015年12月25日 の記録
熊谷 恵さん【土沢地区】
投稿者:早川峻介
カテゴリー: 土地の人に聞け
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昭和46年、東京の下町から東和町に嫁いだ熊谷恵さん。都会から来た花嫁として、注目されましたが、周囲の応援と持ち前の明るさで、地域に根ざして大活躍。その熊谷さんから、昭和の思い出と仲間で立ち上げた劇団よぐまんづ東和町の活動について語っていただきました。



実家(東京)での暮らしぶり


 うち(東京の実家)は呉服屋みたいな…洗い張りしたり、丸で洗ったり(着物専門のクリーニング業のような仕事を家業にしていた)。母も父と一緒に仕事をしていた。あの当時、御用聞きが来ていたんじゃないかな。

 うちの母は歌舞伎が好きだから、息抜きにちょいと行って、一幕見て帰って来たり。私を連れて、お茶のお稽古とか、お花のお稽古とか、一緒に母と習って行ってたから。だからね、うちの母がどういうもの(料理)をつくってくれたか、覚えてない。



東京娘が東和町に嫁いだわけ


 私が嫁に来たのが昭和46年11月。(主人とは)東和で知り合った。不思議でしょう。中学校の時の同級生が、東和におうちがあった。(同級生の)お父さんの仕事が東京でハイヤーの運転手をしていた。定年退職して岩手に帰るので、家を建ててる。私の主人のおじいちゃんは大工の棟梁だった…。大工の棟梁さんの息子さんが、自分(友達)にお婿さんを世話してくれると。つきましては、一緒に行って見てくれないか、と言ってきたのよ。

 友達から何度か行こう、行こうと言われて(同行した)。冬もいいわよなんて。夏は夏で(結婚する前に)主人が海に連れていってくれて。そういうお付き合いをしてて。冬は冬で。この人と結婚しようかとなってくるじゃないですか。そしたら、そっち(友達の結婚話)が駄目になって、私たち介添人が…。それでこっちに嫁に来ました。



結婚を大反対された

 (東和町に嫁に行くことを)反対された、された。もう申し訳ないけれどね、「岩手は日本のチベットだから」と言われて。「絶対に駄目だよ」と、親戚中から言われたもの。でも、人間て若いときって、駄目って言われると、行くのよ。振り切って。あのエネルギーね、今は無い。駄目って言われたら、そうねって。



お姫様は雪かきなし


 私はお姫様の嫁さんだったから。雪かきは一切しなくてよかったです。全部、夫が早く起きて、雪かきして。死ぬまでちゃんとしてくれたから。よくしてもらったな、という記憶があって。それに花巻とか石鳥谷に嫁いだんじゃないから。東和の町というのは、ちょっと変わっているのかな。よその人を排斥するんじゃなくて、すごく包み込んでくれるような。その人の持っているもの、いいよ、やろうやろうという感じで。つぶさないもの。よそから来た者が出ようとすると、どんとやられたりするじゃないですか。そういうことはないですよ。



「わがね」が「わがんね」


 私、小原木材店でちょっと事務を手伝ったの。社長は町議会議員で、そこは議員さんのたまり場だったのね。だから、町議会議員さんが入れ替わり、立ち替わり来ていて、いろんな話をしていた。社長は、「恵さん、ここで聞いた事は、よそで話してはだめだよ」と言われたんだけど、よそで話すも何も、何を言っているのか分からない。おじいさんたちでしょう。(訛りが強くて)全然分からなかったのね。そんな感じで、いろんな言葉をお年寄りの方のしゃべるのを聞いて覚えました。

 舅はきれいな言葉なの。姑も水戸だからきれいな言葉なの。こっちの本当の方言に接したのは、そこの事務所で、おじいさんたちの、議員さんたちが来るときだけだったから。家の中では普通にしゃべって。分からない言葉もあって、一番分からなかったのは、「わがらね」という言葉が分からなかった。説明しても、「わがらね」って言うから、なんで分かってくれないのかと思ったら、「わがね」というのは、駄目だという意味だったのね。



周りはいつ東京に帰るかと…


 きっと周りの人は、東京から嫁に来たけど、いつ出て行くかなと思っていたかもしれない。珍しかったと思いますよ。私この通り、いつもスカートをはいてて、若いときはピンクなんかはいて、歩いているわけじゃないですか…。いつ(東京に)帰るかと、みなさん興味しんしんで見ていたと思うけど、残念ながらずっといた(笑)。

 今では(東京に)帰ると山が見えない。緑はあるのよ、けっこう。東京では街路樹なんか気をつけて植えている。山が見えないし、川は完全に護岸工事のようになってるし。



東和町での暮らし…よくしてもらった


 昔は参加しました、子供たちの小正月の行事とか。お年寄りの方が小正月の行事で、こう作るじゃないですか、野菜をまねて藁で。こうズラーっと吊しているの。公民館のところで。「農はだて」とか言って、あと繭っこ団子作って。それには子供たちも出るから、私も出てて。

 私は9年間、子供を授からなかった。みなさんより10年間遅く授かった。それでPTAなんかして、けっこう楽しくさせていただきました。子供ができたら、しっかり根を張った感じがします。私の(東京の)家は田舎がないの。田舎にすごく憧れていたの。田舎に行きたかった。だから田舎に嫁に来ちゃった。そんなに抵抗になく入れた。すっと。

夫が平成9年に亡くなったから、子供たちが中学生と高校生で、なんとかしなくてはならないと思って、いやー、頑張って。周りの方々も手伝ってくださって、よくしてくれたから。



昔の土沢…子供たちは教会で遊んでた


 駅前に土沢教会といって、キリスト教の教会があったのね。子供たちが日曜学校に来てました。遊ぶところがないし、日曜日の午前中は遊んでもらえるし、心配ないし…だったのかな。子供たちがいっぱい来ていたのを覚えている。私は大人の礼拝には出なかったのね。子供のお手伝いだけはさせていただいた。



山崎努の「ダミアン神父」でえらい目に…


私たちが山崎努の一人芝居を東和町でやろうと、「ほおずきの会」を立ち上げて、山崎努が「ダミアン神父」をやったの。あの福祉センターで。それが一番最初。夏だったんだよね。クーラー入れると、(山崎努が)「うるさいから止めろ」と言うのよ。(さらに)明るいとダメだと言ってね。暗くしてやったけど、えらい大変だった。あそこに500人くらい入ったんだよ。それは素晴らしい方、あの人は。昔から好きな俳優さんなんだけど、終わったら、サーッといなくなっちゃった。「えーっ?」という感じで。

 「ダミアン神父」やったり(主催したり)、「ふるさとキャラバン」(劇団)をやったり。私が嫁に来る前の前は、きっと鷹巣堂(たかすどう)とかで若い人たちが、けっこう若い人が、仲間と劇をやったりはしていたみたいですね



劇団よぐまんづ東和町にずぶずぶと…


 あれはジュンちゃんたちが、やろうよと。ジュンちゃんとは息子たちが小学校の同級生。今度、劇団の立ち上げをしたいんで、あなた何日に来てくれないと言われて、「分かった、分かった、行くだけ行くわ」と。そしたら宮さん(星鴉宮さん)がいて。足を一歩入れたら、ずぶずぶずぶ。面白くなっちゃって。

 私は(東京の)墨田川高校に通ってた。(墨田川高校の)演劇部の部長とか早稲田の演劇科に行く人もいたのさ。私も演劇部に入っていたから、嫌いではなかったんで。好きだったのかもしれないし。ちょっと、やり始めたら面白くて。なんだか、ずぶずぶ入っていって…。



劇団よぐまんづ東和町について


 劇は、自分の人生でなく、人の人生をやるのだから、楽しいんだよね。けっこういろんなところに行った。10月は敬老の日があるもんだから、いろんなところに呼ばれて。3人とか、4人とか5人くらいでしか行けないけれど。年に1回は、きちんとしたものをやっていく。(稽古のとき)私は意地悪くいろいろと言って、申し訳ないけれど。出来上がったものが、とても良くなれば、それが一番だから。(出来上がった芝居は)ほんとに。すごい。びっくりします。



東和町で好きな場所

 つきなみだけど、毘沙門天さんのところから見た、「ザーッ」と猿ヶ石川が流れてるところ。それは素晴らしい!あと、土沢幼稚園の上の方に行くと、街が展望できるところがある。あそこもいいところです。

 猿ヶ石河畔の前郷の辺りで、「ああ、うちの父さん、よくここでザッコ捕っていたな…」という感じのところ。浅瀬をつくってね。落合橋があって、中州みたいところに畑があって、木の橋があるのね。今もあるの。あそこを見るとね、なんとも言えない、のどかな雰囲気だよ。映画を撮ったときに、あそこを使った。



映画「牛(べこ)とコスモス」のこと

 映画をつくったの、私たち。役重さんやえっちゃんと。(二人が何かを始めると)必ず私にも声が掛かるの。役重さんが脚本を書いて、毎週土曜、日曜に撮影して、「牛とコスモス」という映画をつくったんです。あの頃(神奈川県)川崎市と東和町は、よく交流してたの。(映画では川崎市の)高校生を(東和町が)受け入れる話を(題材にした)。

ほんとにあったのよ。子供を産めない牛をつぶすということになって、川崎から来た女の子が可愛そうになって、(牛と)一緒にに逃げちゃう。探して探して、大騒ぎして、やっと見つかって、めでたしになるんだけど。そういうストーリーで映画を撮った。ちゃんと配役があったのよ。

 (「牛とコスモス」を制作する)その前に「カノン」をつくった。東和の田植えだとか、掘っているところを音だけでやって(録音して)。いろんなところに行って写真を撮ってね。田瀬から朝陽が出るところかな、そういうところを撮ったりしながら、一つの小さな短編を音と絵(画像)だけで、そういうのもやった。



「東和町」だった頃は…


 (「牛とコスモス」を制作したのは)平成5年くらいのときだったのかな。面白かった。そうやって、自由に外者(そともの)が、ワーッと動きやすいのが東和町だった。今は(合併して)あまりにも大きくなり過ぎているから、そういうことをやろうとしても、できないような状態。

 (当時、東和町長の)小原秀夫さんも最後に出てきた。トップの人の好みだと思うわ。文化というものに傾倒している人(首長)は、図書館とかにすごく力を入れるでしょう。体育会系だと体育館とか、スポーツ振興の方にお金が行くと私は思う。小原秀夫さんは、そういう目新しいのが好きだった町長さんだから乗ってくれて、それでやったのよ。(旧東和町は)予算は少なかったかもしれないけど、私たち町民とすれば、いろいろ動きやすかった。



【取材担当】柴田、伊藤
最終更新日: 2018年06月18日
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