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2016年3月4日 の記録
瓜生祐子さん、阿部カズ子さん、齋藤トミさん、神山圭子さん、滝田ゆう子さん【花巻中央地区】
投稿者:ふるさと 遺産研究所
カテゴリー: 土地の人に聞け
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青春真っ只の時期を戦争と共に過ごした昭和4年生まれの同級生の皆さんに、学校の思い出や花巻空襲のことなど当時を振り返ってお話をしていただきました。
【(写真左上から)神山圭子さん、瓜生祐子さん、阿部カズ子さん、(写真左下から)滝田ゆう子さん、齋藤トミさん】




花巻高等女学校での学校生活


阿部さん:小学校さ入って、支那事変。6年生の時に、大東亜戦争。そうして、女学校4年生の終わるあたりに終戦。すっぽり支那事変になってからみんな入っているのす。

滝田さん:私は樺太ってソ連領に。日本に引き揚げてきたの。でも、順調に引き揚げてきたけどね、花巻駅で降りたら、ブスブスとけぶったまんま、まだ残ってたの。戦後に(花巻に)来たの。
いずれね、女学校時代は勤労奉仕だとかそういうことばかりして、勉強ろくにしてなかったよ。

瓜生さん:全然勉強しないでなは、女学校卒業証書もらってさ、社会さ出たっけさ、国語も算数も何にもできないのす。1年生の時は普通にやったの。A,B,C,D…とかって。

滝田さん:This is a pen とか、This is a springとかす(笑)。それしか知らない。

瓜生先生:やっぱり昔は…おらたちもまだ13歳だよ。中学校1年生。女学生なったという自覚はあったったけど、勉強しねばねっていう気持ちはもったことないもんな。

阿部さん:そしてなは、その頃はなは、1年生はおかっぱ。

瓜生さん:花巻女学校だよ。

阿部さん:2年生は髪をわける。3年生は結わえる。ちゃんとそういう風に校則あったの。それから、スカートは下から30cm。床から。背の高い人あれば低い人もあるっちゃ。そうだったの。

瓜生さん:全部測られるんだもの。上級生が尺(さし)持って来て。

阿部さん:あの頃なは、1年生2年生はなは、家で待機だったんだもん。

瓜生さん:空襲が激しくなって。

阿部さん:3、4年は学校工場になって、軍服作りだったから。

瓜生さん:邪魔になる1、2年は家で。警戒警報とけるまで。
でもね、学校の所が昼間攻撃なったのは、1日だよね。8月10日だけ。あとはね、夜なんか来て、音っこブーンと鳴らしてもね、警戒警報くるわけ。そしたら、各家庭では、電気ってのはブラーと下がって傘っこのある電気だったでしょ?そいづさ、風呂敷だの、何だりかんだりかけて。灯火管制って言ったの。灯火管制をしかれれば、黒い布っこかけて、そこの下でご飯食べたり、お茶っこ飲んだり。勉強した人もあるんだろうけど、おらは勉強しなかった。

阿部さん:みんな教科書墨でなは。

滝田さん:戦後はね。

瓜生さん:鬼畜米英っていうことを教わってきたから、頭切り替えて、今からはアメリカさんとか、マッカーサー。そういう時代なのす。人間の切り替えもね、頭の切り替えもね。でもそういうのは、花巻女学校の人たち頭よかったからね。すぐに切り替えてね(笑)。



農家での勤労奉仕


−勤労奉仕で一番大変だったことはなんでしたか?

瓜生さん:2年生のあたりは、湯口だの湯本だのさ行って。出征兵士でいなくなればね、稼ぎ手ないから家が困る。私たちが行って応援するのす。男の人たちみんな戦争さ行っているから。おばあさんだの姉さんしかいないわけだ。農家の困っている人たちの家さ行って、りんごさ袋っこかけたり、それから田んぼさ行って草取りしたり、田植えしたり、稲刈りしたり。田かきから始まって、田植えして草取りして、そして稲刈りってやったでしょ。そういうのも全部ね。勉強しないで「今日のこんびり、美味いの出るべか?」なんて(笑)。

阿部さん:普通、一般の家ではなは、美味しくは食べられねかったわけだ。だからなは、田舎さ行けばほれ、こびり。

瓜生さん:「今日何でるべ?」「うまくねなは」「今日のはうめなは」とか(笑)。



当時の生活のあれこれ


阿部さん:その頃制服なんか着なかったのさ。みんな活動着。

滝田さん:もんぺ履いてね。

阿部さん:みんな親たちの着物壊したりしてなは。

瓜生さん:おらいではもらいさ行ったった。銭っこもねし、物もねし、親たちはぜいぶ苦労したよなは。食べさせることで精一杯。

齋藤さん:食べるものなしでしょ、着るものもなし。


−配給は?

瓜生さん:配給は戦争が終わってからだな?配給っていうのは。

滝田さん:いや、あったよ。衣料切符ってもらったったよ。

瓜生さん:戦争中か。

滝田さん:戦争中だ。学校にいる時にもらった。


−学校で配られたのですか?

滝田さん:違う違う。町役場からもらったの。

瓜生さん:小学校の時なは、長靴なんかさ、配給で。くじ引いて。おればりくじ強くてなは。いっつも当たってなは。ダルマ靴なは。

滝田さん:(聞き手に)ツマゴなんて知らないでしょ?藁で作ったのね。それ履いている方まだいいけどね。ゴム長靴履こうったら大変。

瓜生さん:だってあれしかなかった。長靴売ってねから。

阿部さん:また、ツマゴはいいんだよなは。あったかくて。

瓜生さん:ツマゴはいいっともなは、べちゃくちゃずくなった時には大変なのよ。(雪が)溶けねばいいのす。

阿部さん:そうすれば、こんどは炬燵の中さ入れて、ホカホカホワーン(笑)

瓜生さん:ストーブもなにもない時代なんだもん。各家庭である暖房は、一つの炬燵とか。あるいは農家さ行けば、ヒビド。ヒビドって知らない?囲炉裏。それが大きくなってね、自在鉤さ、何か鍋さぶら下げて。藁くべたり、薪くべたりすれば、モワモワ…。ゆぶたくて(煙たくて)、ゆぶたくて、泣きながらご飯食べたり。それから、自分の濡れた物を乾かしたり。それから、そのヒビドねぇとこ、炬燵さつっこんで、炬燵の中、モワ〜ンと湯気(笑)。


−昔の炬燵はどのようだったのですか?

瓜生さん:昔はね、木炭。

滝田さん:それにアミかかってね。

阿部さん:今のようになは、テーブルのようなの…でなくなは、こういう風になは、木、あったったのす。組んで。だから、この間さ靴入れてなは。ヤグラ。今の炬燵とは全然違う。

瓜生さん:カバンおめたち何下げた?おら小学校のランドセル。しばらくなは、ランドセル背負ってったよ。2年生くらいまでは。おれ、ぺっこ(小さい)だったからさ。

滝田さん:私リュック背負って歩いたよ。

阿部さん:芯いれるっちゃ。帯さ。あの芯でなは、(カバンを)作ってもらってす。

滝田さん:私一番大変だと思ったのはね、女の人、生理。生理あるときにね、今みたいなの何もないもの。本当に大変だったですよ。あのね、メリンスって着物あるでしょ。生地。メリンスはウール入っているから案外そういうのにいいのよ。そして今、パンツ式でなくて。本当にね、大変だったよ。脱脂綿なんてないの。今みたいにパットもなかったもんね。だからね、女の人は大変だったよ。どこかに出かけるったって大変だったよ。今はいい時代だよね。

瓜生さん:本当に最低生活やったんだもなは。米だってなは、今は買わねで、パンの方がいいだとか。

阿部さん:あのパン。草のパン。

瓜生さん:馬の糞パン。配給のパン。そこの家族が4人なら4人分、切符をもらってその米屋さ行くわけ。そうするとね、道路は今のように舗装されてねから、土の道路だったでしょ。そこさ馬が通るから馬の糞がこうあるわけだ。おれと妹とまず配給もらってきてなは、「ぜいぶ、馬の糞みたいだなは」って言ったっけ、たまたま小舟渡あたりに馬いたから、馬の糞がホヤホヤずいのあってさ。「ちょっと、さっきのパン開けてみろ」って。こいつとこいつ並べたっけ、そっくりだった。こいつ持ってってみんなさかせるかなってバカ話してね。ただ臭いが違うだけでね。そっくりだったよ。本当に。藁入ったの。藁。そのパンを家さ持ってって、食べたか食べねかはちょっと。だって食べられたもんじゃなかった。藁が入って。馬と人間が同じレベルだ。



闇買


阿部さん:そしてほれ、田舎から何か買ってくるべと思うべ。旭橋、豊沢橋、とにかく橋の根っこに警察いるのす。

瓜生さん:“闇買い”って言ったの。何かを物々交換。着物持ってったり、金属持ってったり。あねさんたちが嫁さんやるのに、赤い着物が欲しいっていう家さは、自分たちがなけなしにもらってきた着物っこ一枚持ってったり、帯っこ持ってったりさ。物々交換。

阿部さん:そこ(警察の目)をうまくすり抜けねば。

瓜生さん:闇で物を物々交換するから。正々堂々じゃないんだよ。(警察は)見こぼしもしてくれたんじゃないっか。
 私たちはね、今の東和町の晴山っていうところが父親の実家で農家だったから、お米いっぱいあるわけだ。うちではなにもないわけだ。すれば、私と姉と父親と3人、リヤカーさ、薪をもらってくるふりをして、薪の中は実は米。米の脇さ薪を積んで、ごっそりとね。朝間早く行って、そして夜遅く帰ってきて。真っ暗い新坂。3時間以上も歩いたんだねっか。リヤカーだよ。今だら車で15分くらいでいくよ。そこのところを親子3人でさ、しかも私たちまだわらすなんだよ。だから足丈夫になったのよ私。それで国体選手になったわけだ。鍛えて。

齋藤さん:だって生きるために必死だったんだもんね。みんな。

瓜生さん:とにかくよくぞ生きて、90近くまで元気で。



当時の子どもたちが食べていたもの


阿部さん:そこ辺りのスカンポ採って。

滝田さん:イタドリ。イタドリってわからね?

齋藤さん:酸っぺなは。

瓜生さん:イタドリの若い時。うまくねのす。赤いのでね、フキのような形してね、節があってね。スカンポって…子供達のおやつ代わりだった。野辺にあるの。それがおやつだったの。(よく食べていたのは)戦時中だな。
…イタドリと違うのか?

滝田さん:違うの。それから桑の実だとかね。

阿部さん:桑の実、シャゴミ、グミ、それからスグリ。

滝田さん:垣根にやったもんだもんね。

瓜生さん:そいづ取って食えば、「コリャー!」って叱られて、みんなして「ワーッ!」って逃げてさ。何も取らないで見てた人捕まって、くられて(笑)。いっぺ食べた足の速いのは逃げて(笑)。おかしかったなぁ。おらなんか一回も捕まったことないもん。ボサーっとして見てる人たちが捕まってくられて(笑)。

阿部さん:ちゃんとは、どこのエグネ(屋敷林)には何があってということ覚えてるんだもんなは。

瓜生さん:どっこにもあったんだもん、昔。農家の方には。それからほら、水泳さ行けば、北上川の、小舟渡の、ウリだのカボチャだのスイカだの、みんなわらすたちは、帰りにはご持参してさ。捕まらねばみんな持ってって。

阿部さん:北上川横断してなは、シマ辺りさ行ってなは、スイカ盗んでくるんだと。

瓜生さん:ただ「コリャー!」ってさかぶだけで、そんな訴えるとか、走ってって捕まえるとかそんなことしなかった。わらしゃづ(子供達)のやることだもの、腹減ってるものっていうふうな、本当にみんななは、寛大な気持ちでなは。ただ、人のものは黙って盗らねで、「頂戴」って一言前に言えばいいものを、わらしゃんどだからこうして、「いないじゃ、いないじゃ。…ほれー!」ってやって(笑)。それをやっぱり教えるために、「コリャー!」って言ったっけ、逃げられて、教える暇がなかったんでしょ。おそらく。たぶんだと思うよ。とにかく寛大だったもんな。こっちさいる子供たちもそっちさ行って持ってくるべし。



花巻空襲当日の花巻女学校の様子について


−花巻空襲の当日はみなさんどこにいたのですか。

瓜生さん:みんな学校。私たちは4年生。最上級生だったから。だからね、学校で軍服の縫製作業の予定だったけども、情報が入って、今日は飛行機来るようだというのがわかってね、仕事まだやらないで広げてね時だったの。空襲警報が鳴って、大きな白い風呂敷さこうして材料背負ってね。防空壕もなかったけれども、まず防空壕みたいなところさ逃げたの。(当時の花巻女学校は)花巻病院の場所の隣でしょ。今のまなび学園の場所だから。そこさずーっと木があってさ、斜めにあったったの。

阿部さん:林があったったの。

瓜生さん:そこさ潜り込んだ人もあれば、いずれ、防空壕なんぼかあったから、そこさ入った人もいた。

齋藤さん:ただ掘っただけのな。

滝田さん:タコ壷って言ったんだよ。

瓜生さん:結局みんなが逃げてたのが上から見えてたわけだ。一回ダダダと撃っても、やっぱり子ども達だっていうことで可哀想だと思って…


−一回撃たれたんですか?

瓜生さん:撃たれたの。

滝田さん:校舎に弾の痕があったよね。

瓜生さん:学校の校舎。家事室。家庭室というんだけどね、そこの屋根さボッタリ落として中が。


−人の被害はなかったのですか?

瓜生さん:先生も生徒もみんな逃げた。

阿部さん:女学校の側に釜石線の線路があったわけす。だからなは、駅をやったんだもんなは。

瓜生さん:あの時はなは、花巻駅やられたえ?そこで人が死んで。やっぱり女学校はね、家庭室さドカンと一回落として。やっぱりわらしゃど(子ども達)可哀想だと思ってなは。

滝田さん:まさかぁ(笑)

阿部さん:見たったべかぁ?(笑)

滝田さん:焼夷弾でなかったんだえ?

阿部さん:焼夷弾。

滝田さん:燃えなかったの?

齋藤さん:不発弾だった。

瓜生さん:その時ね、花巻女学校中でおれ一番声たけかったから、校長さんの隣の伝令っていうことで、校長さんがさかぶの。それを全校に、マイクなしでおれが、校長さんのすぐ隣で。

阿部さん:そうしているうちになは、上町から火事出たーっていうのがあったのす。

瓜生さん:そうしているうちに今度はね、花巻駅から戸板さ、死人だか、半分死にかかった人だか、怪我した人だか、だーだーだーとおらほの学校の前を通って花巻病院さ。担架なんか間に合わない。2台か3台しか。戸板さあいづしてさ。花巻病院さみんな連れていったの。校庭斜めにしきって。

齋藤さん:人の集まった所、機銃掃射で。


−女学生たちは学校に集合だったのですか?

瓜生さん:女学生は3年生と4年生しかいなかったから、200人ちょっとくらいしかいなかったから、それは全部助かったの。だからね、私たちのことはね、アメリカさんもす、助けてけだんでねかえかと思うよ。

滝田さん:すったなこともねえべっとも、ちょうどにあれだったんだ。

齋藤さん:運が良かったんだ。

神山さん:林のとこさこうして(伏せて)なは。

瓜生さん:んだよ。林のさこうして、「ナンマンダーナンマンダー!」みんな頭ばり隠してなは。いざとなれば、「ナンマンダーナンマンダー」の合唱だったよ。

阿部さん:午前中はなは、一回素通りしたのす。素通りして後藤野(飛行場)だえ?そして今度なは、帰りにやられたのす。

齋藤さん:不発弾が落ちると、土っていうか石ころっていうか飛ぶわけだ。そいづ当たった人、「痛い痛い!」って。弾さ当たったと思ったのよ。

瓜生さん:見えるからね、「帰ってきたか。生きてたったか」みたいな感じ。親もね、半分あきらめてたのさ。私たちは、親、何じゅだったべって心配してたっけ。まず命はね。



花巻が焼けた


阿部さん:逃げたのす。上町が火事だって言うから。

齋藤さん:火柱が見えたんだもんな。

阿部さん:私とトミさんとノブちゃんと、家が心配になって。先生になは、「ダメだ!行ってダメだ!」ってうんとくられたの。それでも逃げたのす。そしてなは、平沢公園から見たっけな、ダーッと焼けてたの。

瓜生さん:どっかの家で天ぷら揚げてたところさ、そこさ機銃掃射受けて、それからがダーっと燃えたずって話あったったけど、どの家だってね、大変だったんだよね。
私たちは逃げないで学校にいたわけ。そしたっけ、今度ね、焼けてるでしょ。バケツ持ってバケツ隊で。火消しさ。ずーっと。高木まで行ったの。厚生病院の辺り焼けてね。何人行ったかそれはわからないけども。やっぱり私もあの当時校長のすぐ隣でさ。…教頭より偉かったんだからね、おれは。とにかく校長さんの側にいて、バケツ隊でね、何人かいてなは、厚生病院の辺りでバケツ隊こうしてな、そして旭橋渡るところまで行ったけども、今度は高木さも火飛んだんだよ。そっちの方は今定かでないけれども、何軒か焼けた。

滝田さん:じゃあおめはんたち、夜はどこに泊まったの?

阿部さん:おらほではなは、小屋が残ったのす。


−自宅はどこにあったのですか?

阿部さん:大町。

瓜生さん:神山さんは豊沢町。

阿部さん:一軒焼けるのに5分しかかからねって言ったった。

滝田さん:薪みたいに燃えるのよ。木だからみんな。

齋藤さん:そして、家がこう並んでるでしょ。屋根の下の木さフワーフワーと炎が来るの。そうしているうちに、ダーっと焼けて、次の家さもまたこう…

阿部さん:本当はなは、おらほの方の家はなは、あの時あれ、今弘3階だったっちゃ。ビンとした。あそこで防げると思ったのす。そしたっけなは、裏から回ってきたの。火が。仲町から。とにかくおっかねかったな。

齋藤さん:そしてね、いくらか物出すでしょ。荷物。そして、鳥谷ヶ崎神社の下まで持ってって置くと、今度そいづ(誰かが)持ってくのよ。

滝田さん:盗まれるんでしょ。

瓜生さん:火事泥棒。そったの盗んでさ、用立てたって、あとで結局困っている人あれすればね、いつかどこかでバチ当たりになるのす。


−町は焼けてからどのくらいで復興していったんですか?

滝田さん:私ね、土木事務所に勤めたのよ。そしたらね、区画整理でも焼けた所道路広げたり何だりしなくちゃなんない。今まで通りにはできないわけ。みんな道路にとって、きちっとしたでしょ。

瓜生さん:広くされたんでしょ?

齋藤さん:広くされたの。

阿部さん:そしてなは、豊沢町の中留さん、あそこでなは、缶詰いっぱいあったもなは。その缶詰がなは、破裂するの。

齋藤さん:中留さんって電気屋か?

阿部さん:酒屋。軍隊でそこさいっぱい缶詰を保存してたんでなかったの?そいづ火事になったから爆発したの。それでもなは、ぜいぶ中留さん、泥棒入ったずよ。


−豊沢町も焼けたんですもんね。

滝田さん:東町もずっと焼けたよ。上町の端から大町までね。

齋藤さん:今の郵便局から5、6軒そっちまで焼けたの。

阿部さん:川っていうか、堰。堰のちょっと大きいのあったったなは。そこで。(火が止まった)



終戦の時


瓜生さん:とにかく大変な時代でがしたね。10日の日に爆弾が落ちて、日本は勝つ勝つって騙されて。(勝つと)思ってたというか、上からそういう風に言えば。ただ、おかしいっていう話もちらりほらりは聞こえてきたった。

滝田さん:うちの父親もシンガポールに行ってて、帰り東京のいとこに寄ったのよ。そしたっけね、新聞社だから、日本は負けるって言われてたったの。おらほの父親怒ってね。そんな話ねえって(笑)。

瓜生さん:でも、そったなことしゃべるとね、非国民って言われたの。そったなね、日本の国が負けるとか弱いとかしゃべった人はね、首が飛ぶくらい怖い時代だったの。だからね、聞いても耳悪いふりして聞かねの。だいたいね、もは、みんなわかって。だって一億玉砕。負けたら玉砕するって。みんなでね。日本万歳って死んでしまうつもり。そこまでやってる時代だもんなは。


−8月15日の玉音放送はどこで聞いたのですか?

瓜生さん:学校の講堂が昔、時中堂というね。今はね、南高の同窓会館の中の広いとこ。それがそのまんまのような形で残っているけど。昔の講堂す。そこに奉安殿なんかもあったりしてね。そこの講堂にみんな入らないわけだ。聴くときに私たちは廊下で聴いたったね。1階の廊下の。校長室だかの側にぺっこなラジオしかないでしょ。だから時中堂からこう来た人の。おらたちは廊下でね、“モワモワモワ△@×…”って全然わがねのす。だけど先生方の顔で、「あ、負けたな」っていうことわかって。すすり泣きが聞こえてきて。


−事前に、大事な放送があると言われていたのですか?

滝田さん:そんなことない。

瓜生さん:ただ「集まれ」だけ。

神山さん:おら逃げた。

瓜生さん:15日だよ。

阿部さん:圭子ちゃんも家なんだ。おれも家で聴いたもん。

滝田さん:おれは樺太だから。

瓜生さん:夏休み中だから、やっぱりなは、何かでなは、私たちは休みも返上して軍事工場で稼いでた。おめはんたちは家無くなったから、行かねかったかもしれね。

阿部さん:片付けねばねもんな。

瓜生さん:私たちは家があるからね。結局、まだ戦争負けてねから。10日に投下されて、10、11、…15日。5日目だから、私たちはとにかく稼ぎさ行ってたの。そこで仕事止めて早く集まれって、廊下で聴いたったの。今で言えばちょうど事務室だかの辺りでね。この人たちみんな家焼かれてるから、(学校で聴いたのは)私しか。

滝田さん:ラジオも数なかったと思うよ。

瓜生さん:各家庭であったわけでねがったのさ。

阿部さん:やっぱりなは、ラジオのあるような所さ集まってす。あれ?何だえな、戦争が負けたのだがな、それとも頑張れって言うのだがな、わからなかったのす。

瓜生さん:いずれモヤモヤってね。ラジオ聴いた人はまずいい方なんだよ。田舎の人たちなんかそったなの聴いた人ねんだもんな。私たちは学校にたまたまいたからね。

滝田さん:新聞もタブロイド判って小さな新聞だったの。

瓜生さん:そこで卒業してみんな別れたからね、私たちもわからねわけだ。

齋藤さん:しばらくぶりで思い出したね。様々と。

瓜生さん:あれからが大変だった。食い物なくて。

神山さん:戦後ね。

阿部さん:案外とみんな気持ちが合うもなは。困った時代を共有しているからね。




【取材担当】伊藤
最終更新日: 2018年06月05日
この記事へのコメント
#1
花巻空襲の折、厚生病院が火災になって、高木まで火が飛んだとの証言がありますが、岩手日報の次のような記事がありますので参考としてお示しします。
https://hana-isan.com/Search/single_page/5/3061
2018年06月05日 10:27