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2013年7月2日 の記録
高橋 栄一さん【花巻中央地区】
投稿者:ふるさと 遺産研究所
カテゴリー: 土地の人に聞け
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取材時(平成25年7月2日)は85歳。上町の昔の人や町について詳しく、戦前・戦後の上町商店街についてのお話などを伺った。ご自身は車大工の4代目。



旧制花巻中学校(11期生)から軍事工場へ

 昭和16年に旧制花巻中学校(現在の花巻北高)に入学し、1年生の時は勉強したが、2年生になってからはほとんど勤労奉仕、教練だけで、勉強はひとっつもしなかった。3年生になると学徒動員で横浜の芝浦工作機械株式会社に行った。その時は、汽車を貸し切って岩手県下の旧制中学の学生が集められて横浜に行ったわけです。横浜市鶴見にある総持寺(曹洞宗の本山)の奥のほうに芝浦工作機械の寮があってそこに入った。

 当時芝浦工作機械では、飛行機の3枚プロペラを作っていたけど、旧制中学の2年生3年生といっても工業出身ならまだしも、普通科だから何も知らないし、何の技術もないからあまり稼げなかった。しらみは発生する、かっけになったり、栄養失調になったりしました。食べ物がないんですよ。毎日昼夜空襲があり、居なくなる者がいて生死不明とされた人もあった。可哀想だったんですよ。



家のルーツ

 私のところ(高栄)は、車大工だったが、先代(初代)は双葉町にいた。先代は高橋勘次郎(花巻の名宮大工)の弟子で、出身は笹間、栃内横志田です。双葉町(大工町)は職人町であったが、多くいた高橋勘次郎の弟子の一人の娘に婿にきて、その人が昭和元年に事業を興して馬車に引かせる車の台を作って県下に卸した。

 戦後の昭和25年頃、父は、次はスキーを作って売ったが、1年ぐらい続けたけど、商売にならなかった。



戦後の昭和、上町の繁栄時代

 昭和45年に父が亡くなったが、その当時、路線価(土地の価格)は、岩手県で盛岡の大通りが第1位で、第2位は、花巻の上町通りで、県下で2番目の路線価格の相続税がかかって家は15坪くらいの平屋だったのに評価額が高くて相続に10年かかった。
私が子供の頃はここの商人は、元々は近江商人だから、表は商店だが、裏は金貸しだった。銀行がないから。(というか銀行ができなかった)

 戦後は道路が広がり、三輪車や馬車から車の時代へと移り変わった。戦前は国から頼まれた軍需品を作っていたということで、親父は戦後罰金を払うのにだいぶ苦労したものでした。

 車大工は、私で4代目です。初代は、宮大工で、2代目は馬車屋さん、3代目の親父は、盛岡工業出身であった。おじいさんの後妻の人が盛岡出身だったから、そこの家に世話になって、盛岡工業の木工科に通ったそうです。卒業後同級生は官公庁などに入る中で、祖父に家業をやれといわれて、帰って来たわけですが、二戸出身の同級生にスキーを作る者がいて、それで一緒に組んでスキー屋をやらないかといわれて、スキー作りを習い、それで、祖父に了解と協力を得て北海道から材料を買ってスキー屋をやった。しかし、その当時の花巻ではまだスキーをやる時代ではなく、贅沢なスキーは誰もやらなかったので1年ぐらいでやめました。

 そして4代目の私は、荒物雑貨屋を始めた。あと15台ぐらい入る貸駐車場もやった。1時間100円でけっこう商売になったものですが、そのうちあちこちに駐車場ができてしまって。



上町の昔 

 この町は問屋街の商業町だから活気があった。また、職人や弟子、店員の出入りがとても多かった。

 梅津健一郎さんは近江商人だったし貴族院議員でした。それから、角に近江屋という下駄屋があった。これは近江商人です。山形屋喜八と言って誠山房も完全な近江商人だった。それと大津屋とは親戚関係だったと思う。それに宮善も。今の宮善さんの何代か前は花巻町長だった。とにかく町財政がゆるくないから宮善からお金を借りて町財政を賄っていかねばならなかった。昔の貴族院選挙というのは、国税をなんぼ収める人じゃないと選挙権がなかった。花巻町の財政も、お金持ちによって運営されていたわけで、大津屋さんみたいな岩手のベストテンに入る上町商人たちがいっぱい国税を収めていて町税もたくさん払い、その人たちが集まって出資金を出し合って花巻病院を作ったわけです。当時佐藤隆房というやり手がいたんです。財団法人、医療法人だったのは花巻病院の他に2、3しかなかった。

上町は空襲で焼かれてしまったので強制的な区画整理(一律15%だったかの無償供出)
をして、道路を広げた。前はこの三分の一しかなかったが、だーっと全部焼けたのでできたんだな。戦前の上町は近江商人が作った問屋街。馬車や大八車が行き交い、ここから大迫や東和の市日に荷を積んで馬車が行き交ったわけです。私が子供の頃、正月前の市日の人出は道路狭しとそれは見事なものでした



当時の消防

 平沢分団長の時に消防団に消防自動車を1台買って来たけれども、外国製(フォード)の自動車で、これが誰も運転の仕方がわからないで、ただ宝の持ち腐れだった。
 当時の消防はほとんど腕用ポンプで、自動車は(町に)2台か3台しかなかった。しかも車はポンコツで部品もなく、また、運転する者もいなくて、走らなかった。だから火事になると建物を壊すか燃やしてしまうしかなかった。



【取材担当】鹿川、浅沼、高橋
最終更新日: 2018年12月27日
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