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十三塚念仏踊り
投稿者:ふるさと 遺産研究所
カテゴリー: 昔話
 天明3年(1783)、5月に浅間山の大噴火がおこり、8月までの間ひっきりなしに小噴火が続いた。このため5月から9月初めまで南風の季節風によって北国は、その煙のために太陽が隠れてしまったのだった。
 滝田村では、田植えが終わっても、毎日、冷たい雨が降り続き、綿入れを着て寒さに震えていた。8月末の稲の花が咲く頃になっても、天候は全く回復せず、稲は短いまま伸びる勢いがないままであった。時折おこる地震がなにやら恐ろしい事が起きる様な暗示をしているようである。9月末まで、この様な状態が続き、大凶作が確実になってしまったのである。稲は穂を出す様子もなく、青々としたままで、まるで田んぼが青畳である。例年なら、この様な悪天候でも、来年に望みをもって乗り越える元気もあったものですが、不幸にも昨年も不作の年で全く蓄えが無いのであった。もう、滝田村には鶏、犬、猫が姿を消していて、それらは既に食べられてしまい、草木の根まで口に入れて生きている状態だったのである。頼りの川魚、泥鰌や鮒がどうしたものか姿を消してしまったから、尚更大変であった。何より力を落としたのは冷害に強いはずの蕎麦すら全く望みの無い状況で、これしか無いと口に入れる分まで植えたものが、花は咲いたが実は付かない姿であった。11月に入ってからは更に悲惨で、蓄え、体力、智恵の無い者から次々と餓死者が出始まった。夢も希望も全く絶たれ、何ら恵みを与える物が無い。神からも仏からも見捨てられた世界が、そこに存在するだけだった。
 どうにか、息をしている者に与えられたものは、過酷な生への試練のみである。
 村では、血縁の集まりで形成されていたので、本家筋がよく束ねて、互いに助け合って頑張っていたのだが、11月に入ってからは誰の目にも限界が近い事が感じられた。この村を守って行くには……。極、僅かではあるが蓄えを来春まで残すには……。その残された手段とは人減らしを意味するものであった。それには雪の降る前に誰かが村抜けをしなければならなかったのである。しかし、皆栄養失調で体力が低下していて、その行為は吹雪の中へ全裸で飛び出すも同然であり、余程の強運者でも無い限り、それは死への旅を意味するものであった。
 そんな中、この村にも他国の情報が流れて来た。秋田や仙台の人々は豊に暮らしていると言う噂が入って来たのである。もう、ここの村人にはこの噂を疑う心を失っていた。いや、失っていたのでは無く、淡い期待を抱いて決行組が13名に束ねられていたのであった。
 肝入の藤助旦那の家に、朝早くからその13人が集まっていた。皆、重々しくまた神妙な顔付きで座敷に座っている。「なじょしても、お前さん達やるのが?。打つ手は何も無えが、もう一度お代官様に願い出るべえ」と止めるのであったが、13人の意志は固く無言であった。
 村抜けは天下の御法度。しかし、ここまで来ては役人は見て見ぬふり、人を導くはずの僧も、自分が生きるので精一杯であった。領主の北様からは、食糧の支援があったもののこれもほんの口汚し程度であった。
 一行の頭役の佐平は、目に涙を浮かべながら「うだんす。先ず俺たち13人いなくなれば残された人達は何とか冬を越せると思う。何とが秋田が仙台にいけば……。それに……。もう一度お代官様にお願いに出ても、返事待ってだらばもっと寒くなる。北様の蔵だって空だって言う話だ」
 南部御三家の一つ、花巻城主、北家は、この天明の大飢饉に対しては、出来るだけの事をしたのであったが、この時点ではもう領民を救う術は皆無であった。ただただ、時の流れるまま、神仏に祈り、じいっとする策しかなかったのである。
 この無策に近い状況には訳があった。この様な、生きるか死ぬかの苦しみにもがいている領民がいるのを、知ってか知らずか虚栄心の固まりの藩主が治めていたから、悲劇は大きなものになったのである。それは江戸城に登城する際、禄高で決まる席次にあった。今まで10万石であったものを、一気に20万石格の席が欲しくて、飢饉等の災害に備蓄している米を売って、格式を上げる資金にしてしまったのであった。愚かとか馬鹿と言う次元のものではない。藩主として、人の上に立つ責任の一欠片もない、動物以下のリーダーと巡り合ってしまったのである。
 人間は極限になると、いや、人間だけでは無い、生物全てが子孫を大事に残すと言う行動に出るものである。人間はその一つとして犠牲と言う行為を取るのであって、決して共倒れなどする様な選択をしないのである。そうした事によって、次の世代に幸せを期待する道を歩むのである。
 13名とは次の者達であった。
 頭  百姓   佐平   33歳
        妻ハキ   28歳
    百姓   伝之助  40歳
        妻スサ   35歳
    百姓   仁右衛門 36歳
        妻コシ   36歳
    百姓   松之丞  34歳
        妻ツネ   30歳
    百姓   長次   20歳
        妻ハル   19歳
    百姓   万作   20歳
        妻モン   18歳
    大工   清次郎  21歳
 彼らの多くは、新しい分家で田畑や山林も少なく、早く蓄えが底をついた家の者達だった。子供達は、本家筋や親類に預かり頼み、やがて稔り豊かな時代が来たならば、家を盛り上げてもらいたいと託しての村抜けであった。

 13人の中で、ただ一人清次郎だけが独り身で、肝入の藤助の身内であった。その藤助は、なかなかの切れ者で村に残って欲しい一人であったが、宮大工で方々仕事柄、旅慣れていて地理に詳しいと言うので、佐平に請われての決行であった。
 男達は、髭を剃り、女達は髟をきっぱりと梳き、口に薄い紅を引くだけの化粧をしていた。皆長い貧しい食べ物のためか、やつれた表情で少々体力が有りそうなのは、20代の5人位の者であった。肝入は、この様子を見て、ただただ涙を流すだけであった。
 座敷には、念仏踊りの道具が用意されている。これは、村に昔から伝わっているもので、艶やかな衣装、笛、太鼓、鉦、笠、草鞋などがこれからの村抜けの道具として使われようとしている。豊かな稔りであったなら、これらの道具は、チンチンドン、チンチンドンと艶やかに仏法賛美の念仏踊りに使われるものであっただろう。不幸にも、この大凶作で村抜けの手段に使われるのだ。これを育て伝えた先祖達が知ったなら、どの様に嘆くことであろうか。
 藤助がどの様に工面したのか、屑米ではあるが粥を炊き、久しく誰もが口にしなかったものを用意していて、各人に一腕づつ配られた。一同は、深々と頭を下げて粥を口に運んだ。米とは何と豊かな味と香りのする食べ物であろうか。この一椀の屑米の粥、底の見える様な薄い粥なのだが、この頃の食べ物では最高のご馳走であり、皆涙を流しながら啜ったのであった。
 念仏踊りの道具を手分けして持ち、庭に出て藤助夫婦に別れの挨拶をした。村人とは決行の段取りの寄り合いで、目立たぬ様にと見送りをしない事にしていたので、約束通り誰一人来ていなかった。毎日見たり話したりしていた権現堂山へも頭を下げた。この山からは、日が昇る前から働いて季節の移り変わりを教えてもらっていたのだが、今年はこの山から日が昇ったのは何日も無かったのだ。
 藤助が口を開いた。「念仏踊りの道具は関口舟場さ預けておいてけろ。笠だけは旅での道具にしてけろ。達者でなあ……」と極短い最後の言葉をかけた。
 佐平を先頭に一行は滝田村を後にした。これからの第一の難関である関口の代官所前を通らねばならない。今日の夕刻には湯本村の寺へ着くには、代官所前を通るのが最短距離なのである。代官所入り口には2人の役人が立っていて、先ほどから佐平一行を見ていたが、目の前まで来ると「お前ら何処の者だ。どこさ行く」と鋭く問い詰めた。佐平は堂々として笠を両手に持って、あたかも念仏踊りの笠だぞと見せながら「川向こうの黒沼村に念仏踊りにいきますじゃ」と話すと、いとも簡単に役人は納得した風であった。「そだが」と言ったままそれ以上追求せず、空に顔を向けたのであった。彼らには、何もかも見通していて、今時に念仏踊りなど頼む村があるはずが無く、決死の村抜けである事は明白に知っていたのである。ただ、彼らはあまりにも準備の無い村抜け人に対しては、危険なので厳しく追求して止めさせていたのである。
 一行は舟場には無事着いたが、水が少々漏ると言うので舟の修理の為に大部待たされるはめになった。舟が岸を離れた時、湯本村の寺へは夜中になるのを佐平は心配し心が重くなった。北上川はザーザーゴーゴーと鳴り、厚着をしてきたはずの身体をも刺す様な冷たい風に吹かれての川越であった。
 黒沼側へ渡り暫く歩いて、一軒の百姓屋から井戸水をもらって足を休め、一行は安堵した。然し、渡し舟の修理で時間がかかり、寺には今日着く事が出来なくなり、清次郎と佐平の心は穏やかではなかった。どうしたものか、皆口々に水がまずいと言うのである。それは、北上川を境にして、滝田村のある東側は北上山系の塩基性水質、つまり石灰質の土質である。それに対して、西側の奥羽山系は酸性の水質で、がらりと変わったから口に合わなかったのであろう。
 一行は、この日の内に湯本村の寺へ行く事を諦め、清次郎の知り合いである江曽村の藤井家に厄介になるため、飛び入りのお願いに出たのであった。納屋で寝るのを覚悟したのであるが、旧家の体面もあったのだろう、座敷を借りる事が出来た。然し、13人分の布団は当然無く、数少ない布団と火鉢を供されたが、11月の夜には厳しい寒さであった。
 この村も、負けず劣らず冷害はひどいもので苦労をしていたが、村抜けをする程ではない。藤井家では、雑炊を振る舞う準備をしようとした頃、皆が激しい腹痛を感じ始めた。水が原因なのか、昼に食べたスダミ団子に当たったのか。とにかく容易ならない事態となってしまった。せんぶりを煎じて貰い飲みはしたが、一向に効き目が無く、清次郎と佐平は自分も痛いのであるが、せっせと仲間を看病した。ところが翌朝は大変な状況になっていた。伝之助、コシ、ツネの3名が冷たくなっていたのである。余りにも早い別れが来てしまったのだ。一行の落胆は大きく、早くも村へ戻りたいと言う声が出始めたが、佐平の必死の説得で決行継続となった。
 死んだ3人は、藤井家の墓地の入り口へ無縁仏として埋葬してから、再び一行は歩きはじめた。しかし、この墓穴堀で疲れがどっと出て更に歩くのはきつかった。腹痛は治っていないし、ほとんどの者が痛みの為寝ておらず、極端に体力が低下してしまっていた。
 これは地獄の旅路であった。五郎城に着くまでには、更に7名が往き倒れとなってしまった。今朝の3人の様に丁寧に埋めたくても鍬は無いし、それよりあっても体力が残っていなかった。せいぜい枯れ草を被せるのがやっとであった。残りの3人は長次、ハル、清次郎であった。魂だけは連れて行こうと、死んだ者の笠を持っての歩きであったが、とうとう次には長次が倒れてしまった。
 長次は、細い嗄れ(しわがれ)声で「清次郎、もう歩げねえ……。」清次郎はどん底に突き落とされた。頭の佐平までが倒れ、頭の中が真っ白になっていたが、どうにか3人だけでもと思っていたところに、長次が大の字になってしまったのだ。ハルが声をかけた。「もう少しだじゃ。起きて!……、起きて!……」と声をかけたのだが、すうーっと眠りに入ってしまったのである。清次郎とハルが長次の身体を懸命に揺すったら、薄っすら目を開け「あっぱさ逢って来た……。あっぱどこさ行く……。」と言って再び目を閉じ、眠りに入られた。
 清次郎は長次を一眠りさせようと思い、ここで一休みする事にした。
 清次郎はうとうとした。どの位眠ったのだろうか。ハルの泣き声で目が覚めたのである。「おどうの息止まった……。」と言ってハルは泣き続けた。
 
 ハルはすっかり力を落としてしまった。さっきまで長次、ハル夫婦が励まし合って歩いていたのだ。全く呆気ない別れが起こり、残された清次郎とハルは恐怖に襲われ、二人は歩く元気も全く無くなった。周りを見渡したら、近くに藁小屋があるのを見つけたので、そこで一緒に休む事にした。藁は暖かかった。だんだん腹の痛みも遠ざかって、少々精気が回復した様な気がした。ハルがやっと口を開き「なじょして、こったになったのす……」「…………」清次郎は答えに詰まった。「清次郎さんなじょして、こったになったのす……」。彼にも何が何だか分からなかった。元気な身体なら、丸一日あれば到着する距離なのだ。何から何まで前が遮られ、今に至っている。これは何故だろうか?。
 ここで落ち込んでいるばかりではならないので、ハルを力づけるように言った。「ほいどしてでも、仙台が秋田に行くべ。悔やんでもなんちょにもならね……。悔やむと毒だ。一眠りするべ……」。ハルはじっと上を見て「…………、うん……、そだなす。」と言った。2人は暖かい藁の中で眠りに入った。
 起きたら朝になっていた。身体が怠く起きるのがやっとの状態で、もう一眠りしたいが、ハルが元気なのか心配なので声をかけた。「ハルッ!、ハルッ!、起きろ!」しかし声が無い。悪い予感がしたのでハルの潜り込んでいる藁に近づき、顔に手を当てたら冷たくなっているのだ。この時、清次郎は神も仏も恨んだ。初めて恨んだ。重い腰を起こし、残された12の笠を持ってヨロヨロと歩き始めた。何処をどう歩いているのか全く分からなかった。気力の限界はすっかり過ぎてしまい、12個の笠がじっしり重く感じる。
 とうとう清次郎は倒れ、快い眠りに入ったが暫くすると、誰かに起こされた様な気がするがまた眠りに入った。気が付いた時は暖かい布団の上であった。清次郎は下湯本の村人に発見されて、その人の家に担がれて床に寝かされていたのだった。清次郎は残りの力を振り絞って事の粗筋を話したのであった。
 何もかも話したら安堵の波が押し寄せ、深い深い眠りに入ってしまった。これが村人の同情を誘い、清次郎と13の笠が丁寧に埋められて、この事が後世に伝えられたのであった。


※石鳥谷六彦氏が著した「十三塚念仏踊り」より
最終更新日: 2019年02月02日
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