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照井沼
投稿者:ふるさと 遺産研究所
カテゴリー: 昔話 怖い話
 昔、島村(東十二丁目)に照井宗兵衛という大富農があり、所有する田畑は、島村、高木村、更木村から、北上川を越えて根子村、成田村まで100町歩近くにおよんだ。
 彼は、自分の力を誇示するために、この広大な田を代掻きから田植えまで一日でやり遂げることを思いつき、1,000人近い人夫を集めて作業に取り掛かったが、日暮れ近くになっても捗(はかど)らず、彼は地に伏して竜神様に祈り「願い成就の折には金の鳥居を奉納します」と誓った。すると不思議にも田植えが終わるまで夕陽が沈まなかったため、ついに目的を達する事ができた。
 住民たちは彼を「朝日長者」と呼ぶようになったが、当の本人は竜神との約束を忘れ去り、収穫期が近づいたある夜に、彼の枕元に竜神が現れ違約を責めたが、彼は謝るどころか散々毒づいて寝てしまった。
 収穫の夜、みんなで祝い酒を飲み大騒ぎしていたところ、突然豪雨となり三日三晩続いて北上川が氾濫し、宗兵衛一家は豪壮な家と共に水底に沈み、村全体が泥沼と化した。水が引いた後も、宗兵衛屋敷付近は大きな沼となり、人々は「照井沼」と呼ぶようになった。
 以来、水底からうめき声、泣き声が聞こえ亡霊があらわれるといった噂が絶えず、村人たちは近郷から浄財を集めて「円満寺」という寺を建てて供養した。それでも不思議な現象がやまなかったため、今度は梵鐘を寄進する事になり、このことが当時の稗貫城主の耳に入り、鐘は殿様が寄進してようやく呪いも収まった。
 時代は変わり、稗貫氏を滅ぼした南部藩主の頃、円満寺も2代目住職となったが、この2代目道観は大変な道楽者で、借金を巡って江刺の人々と寺の無頼漢達の間で大立ち回りの喧嘩(けんか)の末に、寺は壊され住職は行方知れず、釣り鐘は江刺へ持ち去られた。
 ところが、今度は江刺で次々と不幸な事象が発生し、鐘の祟りに違いないということで返すことになったが、既に寺もなくなっており、やむなく照井沼に投げ捨ててしまった。
 花巻開町の祖といわれる北松斉が、この釣り鐘を引き上げたことや、沼の巨大なタニシを南部藩33代利視公に献上した記録などが残っている。


                 『矢沢郷土史誌』(矢沢観光開発協議会、矢沢地域振興会 2017年)より
最終更新日: 2020年05月02日
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