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2020年1月31日 の記録
金子 勝治さん【花西地区】
投稿者:早川竣介
カテゴリー: 土地の人に聞け
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大正12年生まれ。戦前、金子さんの家は吹張町でライスカレー屋を営んでおり、花巻女学校の生徒たちなどが利用していました。盛岡商業を経て国士舘大学在学中、学徒動員され海軍の軽巡洋艦「酒匂(さかわ)」に乗船。「戦艦大和の艦隊に参加せよ」との沖縄出撃命令が出ましたが、出撃直前に作戦が中止され、戦禍を免れました。戦後は明治大学へ復学。卒業後は花巻北高や花北商など県内の高校で教壇に立つとともに、柔道を指導しました。



●父が吹張町でライスカレー屋を開業


 当時の自宅は駅前大通り二丁目でした。昔は「相生町(あいおいちょう)」と申しました。

 親父の店は吹張町で、ちょうど今の「やぶや」の向かいの辺り。親父が盛岡の(料亭・レストラン)「多賀」で修業しまして、それから店を開いたんですね。ライスカレー屋をやっておりました。「いさみや」です。ライスカレー屋を始めて、ずいぶん「女学校の生徒たちが食べにきた」と言ってました。ちょうど「万惣」の手前の辺りかな。

私は7人兄弟なんです。そのうち私、長男なんですけど、親父は私に料理を手伝えなんていう風なことは一言もしゃべったことはない。私の料理はダメだと思ったんじゃないですか。ちょっとした手伝いはしましたけどね。



●誕生日はお祭り日


 生まれは大正12年9月18日。昔のお祭り(花巻まつり)の真ん中です。昔は決まっておったんです。17、18、19日と。

 花巻まつりをしていたのは、向こう花巻…四日町とか一日市とか、この辺の言葉で「向こう花巻」って言うんですよ。私も古いもんだからね、そういう風な言葉を使いますけども。

 相生町では樽神輿しかなかったもんですから、終戦後、復員してから、なんとか相生町でお祭り(山車)を出したいと思って奔走しました。ところが、アイオン台風とキャサリン台風がありまして、あれで祭りは中止になってしまいました。



●屋台のライスカレー屋


 小さい時は親父さ、ついて歩いたんです。リヤカーひいて。競馬場があったんですよ、諏訪のぶどう園の辺りに。直接行けなくて、ぐるっと上町の方から回って行ったんです。(リヤカーひきながらなので)大変だった。

 屋台を出すと、競馬場の人たちが来るんだ。その人たちにライスカレーを出す。そういう子供の時分の記憶がありますね。

ライスカレーは当時珍しかったんだね。今だえば、すぐ(ルーを)溶かしただけでいいでしょ。あの当時はメリケン粉だの、みんな別々に作ったわけですよ。豚肉を入れたね。鶏肉は使わなかった。



●柔道を始める


 小学校3年生ごろ、「向こう花巻」と「こっち花巻」が合併したんですよ。あっちからゾロゾロと来たわけだ。きかない(気が荒い)やつばっかり(笑)。喧嘩するわけじゃないけれども、相撲とったりしたもんだ。身長180センチの花中キャプテン、そいちゃ勝だねばね(そいつに勝たなければならない)。それから柔道を始めた。

 佐藤道場って、舘坂の真ん中辺りにあった。いわゆる一銭道場。一銭持って教えてもらう。そういう風な道場があったったんです。それから柔道を始めたんです。



●盛岡商業へ通い柔道三昧


 高校は盛岡商業。相生町から5年間通いました。親父の商売が飲食店だったから、盛商さ憧れたんだね。

 相生町の家のすぐ目の前を電車が通っていた。花巻電鉄。盛岡の人たちに、「おらの家の前、電車が通っているぞ」って威張ったもんです(笑)。

 私は盛商へ柔道しに行ったようなもの。盛商から帰ってくると、すぐ寝る。勉強を一つもしない。朝なれば6時に弁当たがえて、そして列車へ。



●満州に就職。大学へのあこがれ


(盛岡商業を卒業するときは)大学へ進学はする気はなかった。あの当時、盛岡商業から満州の会社に就職する人がいっぱいいた。私も盛商を卒業して、すぐ満州に行ったんです。満州にいたのは1年間です。

(満州の会社で働いていたとき、)日大卒業の人が私の係に来たんです。その人の話を聞きまして、「おれも大学行きたいな」と思いました。それで1年間で銭っこを貯めて、(大学を)受験したんです。3つ4つ受けました。私が入学したのは国士舘です。



●神宮外苑での出陣学徒壮行会


 昭和18年10月21日に明治神宮外苑競技場で壮行会をしました。競技場の入口が木で出来ていた記憶があります。

 それまで大学生の徴兵は延期されていたんです。文系が。臨時徴集現役兵と申しまして、いわゆる一般的には「学徒出陣」ということでした。

 壮行会には2万5千人くらいいました。(スタンドで見送る)生徒たちは(出陣の)生徒の3倍くらいおったでしょうかね。(スタンドに)全部ダーッと。出陣する学徒が(競技場から退場して)行くときなんか、(女学生たちが)みんな叩き落ちて(スタンドの下の方へかけ降りて)来るんです。ダーッと。感激してしまって……。なるべく近づいて、そして見送るでしょ。そういう風景が目に焼きつきましたね。



●学徒出陣直前の上野駅と当時の気持ち


 壮行会の後、学生たちは一旦故郷に帰ったんです。その時の上野駅は凄かったですよ。学生たちが歌って踊る。

「きっと勝ちます 勝ーたせます♪ きーっと勝ちます 勝たせますー♪ 上野の森で西郷さんが言った 今年は日本の当たり年ー♪」

 こういう歌を歌って、ぐるぐるぐるぐる回って。あのころは、まだ負ける気はしませんでした。昭和17年はガダルカナルとかで敗けた時期だけども、まだまだやれるんじゃないかと……。

 当時私は21歳。学生たちはみんな張り切っていたんですよ。理科系だって、結局そういう風になってしまった。日本中の感じがね。どうせ死ぬなら特攻隊という意識が……。今考えると、よくあんな気持ちになったもんだと思いますけど、あの当時はほとんどの人がそうだと思いますよ。アメリカは1年も前から学徒入れています。アメリカは早かったらしいです。



●海軍に入隊。軽巡洋艦「酒匂」に乗船


 私は飛行機が好きで、土浦海軍航空隊を希望しました。希望者がたくさんおりまして訓練を受けました。やはり適正があり、私は船へ配属になったんです。千葉県館山の砲術学校へ行きました。対空砲術ってあるんですよ。上さ撃つだけ、ダガダガとね。その学校さ入りました。

 巡洋艦の「酒匂(さかわ)」に乗って、外地じゃなく瀬戸内海周辺へ。(神奈川県に)酒匂川って川がありますよね。艦名はそこから取ったんです。

 あとから分かったんですけども、昭和20年4月4日に、「酒匂」へ特攻命令が下っていた。戦艦大和の部隊に入れと。

 (「酒匂」の合流命令以前は、戦艦)大和が中心にあって、「矢矧(やはぎ)」が(艦隊の)先頭におりました。それから駆逐艦が8隻。うち6隻は沈んだけれども、あと2隻は戻ってきました。



●沖縄出撃命令が下ったが……


 そうしたことがあってから、(そのあと)出撃命令が下った。(だが、)結局は「帽振れ」というような……、船が出航するときに、こう帽子持って振るんですよ。岸壁に立って。そして「沖縄の嘉手納基地に突入せい」と。それは燃料が片道しかない出撃というわけなんです。

 その時は沖縄にアメリカが上陸していましたね。本島じゃなく。私らはその時は(嘉手納へ行くということは)分からないですよ。後からそのような資料が出てきたんです。

「帽振れ」だから、そのうちに、「酒匂」も沖縄へ行くと思った。もう、生きては帰れないと思っていました。死ぬ覚悟で。

 「酒匂」は「矢矧」と姉妹艦なんですよ。軽巡洋艦。一番最後まで残った船だった。終戦になって、家に帰って来て、ゆっくりしようと思っていた。ところが、また召集命令が下ったんですよ。外地さ行って、人を乗せてきたりすることができるかと。でも、私は引き揚げには行かなかった。「酒匂」は外地から人を連れてきた。ビキニの核実験でやられた。


※軽巡洋艦「酒匂」は終戦の前年に進水。海軍で最後に建造された艦艇だった。沖縄に突撃する作戦命令が下されていたが中止となり、瀬戸内海に廻航。戦禍を免れ、終戦時は舞鶴湾に停泊していた。戦後は大陸や南洋など外地からの復員船として役目を果たす。だが、昭和21(1946)年、アメリカが行った太平洋、ビキニ環礁(現マーシャル諸島)の核実験「クロスロード作戦」において、退役米艦などと共に標的とされ、大破沈没した。



●編入試験を受けて明治大学へ復学


私は軍隊から帰ってきてから、すぐ復学せずに北東金属さ勤めていた。そして現場の仕事をしていました。すぐ大学へは行けなかった。

 大学へ復学しようと思い、その後、編入試験で明治大学3年生に入学した。当時は入りやすかったのでしょうね。戦後のどさくさまぎれというか(笑)。



●会社員を経て高校教師となる


 明治大学で「商業・経済」の教員一級免許状を取れたんですよ。

 花巻北高で教師をしているとき、私は「柔道の先生」と言われていた。そんなにやったわけじゃないけど。最初は体育もやったんです。海軍で体育やって、柔道もちょっと覚えていたもんだから。それからバスケットのドリブルだとか、ハンドボールとか、球技が好きだった。ラグビーもやった。いろいろ研究をしながら。

 花巻中学校に高橋弘という体育の先生がおりまして、その先生からドリブルを教えられたり。私は体育の学校を卒業したわけじゃないんだけど、好きなもんだから始めたんです。



●戦後の柔道と剣道


 柔道は終戦後の昭和25年まで禁止でしたね。マッカーサー司令で学校では銃剣道禁止。昭和25年以降に、指導者講習があったんです。それで文部省まで行って講習を受けた。

 新しい柔道とは、どんなものであるかと。3人で講習に行って、帰ってきて、みんなに伝達した。剣道はもっと遅くなったんじゃないかな。剣道も「竹刀競技」って言わされたんですよ。そういう風に直せと言われたのでしょうね。



●特攻隊員への思い


 我々の年代では、学徒出陣で亡くなった人たちがいっぱいいる。悲惨な思いで死んだ連中がおる。

 作家の山岡荘八は、(太平洋戦争中、海軍から)報道班員の命を受けて、鹿児島県の鹿屋基地に行き、(特攻兵器の)「桜花」に乗っていく人たちに会っている。

「桜花」を飛行機(母機)のところさ吊して持って行く。そして、そこに乗るわけです。必ず死ぬ。生きて帰ることはない。

やっぱり我々の年代で、大正12年の人たち、学徒出陣で亡くなった人たちいっぱいいるんですよ。その人たちの遺した文献を見ても、戦争を鼓舞する人は誰もいない。それが遺言だと思って。




【取材協力】中村萬敬さん

【取材担当】伊藤友季(ふるさと遺産研究所)
最終更新日: 2020年07月22日
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