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2020年5月8日 の記録
中村 眞子さん【花巻中央地区】
投稿者:ふるさと 遺産研究所
カテゴリー: 土地の人に聞け
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昭和9年生まれ。小さい頃から両親とともに行っていた花巻教会で賛美歌に親しみ、高校時代は音楽部に所属。学校を卒業してからも長年合唱を続けてきました。中村さんが所属していた花巻混声合唱団は平成7年にイーハトーブ奨励賞も受賞しています。



●本家は呉服屋


 元々実家は豊沢町で、昔はおっきな呉服屋だったんです。「中与」って言うね。宮沢賢治さんの(家の)筋向かいというか。私が生まれてすぐにカマドになったから、今の場所に。

(今の場所では)行商でしたよ。行商っていうか、今で言えば西和賀、あっちに行って、鉱山地帯だったから、ずらっと社宅。そこの一軒を借りて、(売り物を)広げて。まあ行商に近い。その後なんぼか家でもやったことあるけど、大したあれじゃないですね。



●父と家族のこと


 (父親のことは)それなりに尊敬はしていたったけど、私が一番嫌だったのは、3回も結婚した。子どもの心なんか全然わかっていない。

 私の姉が女学校の時にピアノを習いに行った先生が、東京から疎開していらした先生で、有名な先生だったらしいです。何でこっちに来たのだろうとは思ったけど、結核の静養に来たらしいです。そしてそこで姉が結核をもらって来たんだよね。そして卒業と共に亡くなったの。それから4ヶ月でおふくろも結核で亡くなった。それからまた3ヶ月で弟も亡くなった。1年で3人も死んだ。そしてね、一周忌を待ってすぐ父は再婚したの。その時私は中学校一年、一番感じやすい年頃でしょ。今考えれば、男なら普通だなと思うんだけど、一番思春期というかそういう時で、そういう点ではとっても嫌な親父です(笑)。

 父はね、90まで生きたのよ。(照井)謹二郎先生とはキリスト教のあれで、それで世話してもらって、みなみ幼稚園の小使いさんしてたったんです。

 うちの父の兄弟はね、みんなクリスチャンにかぶれて。かぶれてなんて言葉悪いけど…それでもう熱心に。父の兄貴は、メキシコまで伝道に行っているの。うちの父は外人さんの洗礼を受けたんだね。

 宮沢賢治さんも一生懸命宗教のことを勉強してらしたから、妹(トシ)さんといっつも教会に行ってたみたいですよ。花巻教会だと思います。(賢治さんと父親は)年が三つしか違わなかったから、普通は遊び相手で何かするんでしょうけど、一生懸命宗教の話してたみたいですね。



●教会で音楽にふれる


 教会に行ってたから、ハーモニーが(好き)。賛美歌。もうは、おふくろの背中にいる頃から聞いてたんだって。そんな好きでもなかったんだけど、ハーモニーはいいなと思ったったね。おふくろが声のいい人でね。うちの父親は音痴だったんだよ。音痴でもおっきい声で賛美歌歌うんだよね(笑)。

 これは(写真1枚目)教会のクリスマスの時かな。昔今のようにパチパチ撮る時代じゃなかったからね。何かの記念の時にしか撮らなかったからね。この写真は昭和10年頃かな…。常にみんなで(賛美歌を)歌ってたったもんね。




●音楽部に所属していた高校時代


 合唱は高校からずっとね。(当時の北高は)今で言えば桜台(小学校)のとこだった。(坂を)上るのやんか(嫌だ)ば休んだりしてね(笑)。変な話、私、音楽と家庭科だけは人に負けたことなかったの。いっつも一番だったの。他のものはダメだけどね。家庭科ってのは自分が…ほら、おふくろ早く死んだから、看護するのから、家の中のこととか、自分で実践しているからね。勉強したんじゃなくて、これは実践。今考えればありがたいことだよね。

 これが高校の音楽部の面々(写真2枚目)。今だと制服着ないと怒られるでしょ。私らの頃は、制服を買える家が少なかった。毎年合唱祭が盛岡の公会堂であった。いつも10月の、赤い羽根つけてね、公会堂の前で毎年写真撮って、そして参加して。コンクールにも…最後だったえかな、一回くらい出たったけど、予選はダメだったけどね。



●高校卒業後


 私最初はね、花巻デパートというデパートがあったったんですよ、あそこの靴屋さんにいて。その後は営林署に入って。営林署は、今まなびの駐車場になっているけど、そこにあったのよ。それが、私乳がんだったのね。25の時、まだ子ども産む前にね。それで頭パーッとなってしまって、役所辞めなくてもいいのに、みんな辞めてしまったの。その当時だから、もは、生きるということが頭になかったのね。それにしても辞めなくても良かったのにね。もう手術する前にはみんな辞めてしまって。

 その後働かねばなんともならねで、石神製作所さ行って。そこで手怪我してね。10年働いた。そしてその後には、友だちが、「指無くても集金だば出来るんだよ」って言われて、岩手日報の購読料の集金を始めた。そして家の向かいの電鉄タクシーで電話番。そこでまず、二足の草鞋を履いて10年。今もまだ集金やっているの。今は感謝だ、集金1日でも遅いと「具合悪いか?」って電話来たりするもんね。だからお客さんってありがたいものだなと思ってね。



●合唱の話


 公民館にピアノ入れるために、何回か「音楽の夕べ」って言うのやったんですよ。まあ、公民館のピアノも誰かの放火で焼かれてしまったけれどね。「音楽の夕べ」やっていた時のグループは、「音楽愛好会」って言ったっけかな。その頃には宮沢清六さん(宮沢賢治の弟)もいらしたの。いい声なのよ。太くて。ベースがね。低音の響く人だった。

 そしてですね、こういう本があるのね(『まして、人間においてをや一寸の虫にも五分の魂 岩手大学名誉教授、鷹觜洋一遺稿集』)。花巻混声合唱団のために、鷹觜洋一先生という岩手大学の先生が出してくださった(宮沢賢治の詩による合唱曲が載っている)。全曲合唱団のために作ってくれた曲をね。全部譜面がついている。中でも私は「五輪峠」が好きなの。「原体剣舞連」はね、ソロの部分があるの。「むかし達谷の悪路王〜♪」ってやつ。

 (花巻混声合唱団は)35周年までやったからね…40年はいったと思うよ。発表会はしていないかもしれないけどね。解散と言うんだか、自然消滅と言うんだかね。上手くあれすればよかったんだけれども、もったいなかった、本当に。

 私にすれば、音楽歴50年だって言うんだけどね(笑)。その後、「あひるのコーラス」っていうね、おばあちゃん達のコーラスがあって、それの指導をしていたったの。それも人がいなくなって解散したけど。何年までやっただろう…相当やったね。

 (花巻にも合唱団は)いっぱいあるんだけど、やっぱり若い人のコーラスを聴くといいなーと思うからね、年寄りは出しゃばるところではないなと思う(笑)。
不来方高校、あれ聴いたもんでからとてもじゃないが足元にも及ばない。今年ほら、北上の黒沢尻北小学校(全国大会で最優秀賞)、指導者がすごかったんだなと思って。聴くと大人の声だっけもんね。やっぱり指導者次第だなって。

 他の合唱団の演奏会聴きに行って、未だに頭に残っているのはね、メンネルコールの最上川舟唄。男性コーラスね。いがったなぁ、あれは。未だに耳に残っている。最上川の船下りした時に船頭さんが歌ってくれたときは、あれを思い出して、いいなぁと思って。ちゃんとしたプロが歌うとね、民謡もすごいんだよね。



●みんなに知らせたい花巻の歌

 あとね、これみんなに勧めたいと思うのよ。『花巻讃歌−花巻の四季−』(作詞・佐藤進、作曲・斉藤明)。春夏秋冬ね、花巻のことを優しく。それを作曲した斉藤明さんっていう人も所属しているビリーブ(花巻の合唱団)のミニコンサートで初めて聴いて、「これは誰にでもわかる簡単な歌詞でいいな」と思ったのね。私はビリーブでしか歌わない曲なんだえかなーと思ったっけね、「賢治の里で賢治をうたう会」で、その人達が去年合唱祭で歌ってたから、じゃあ宣伝しても大丈夫だなって思ってね。優しくていいと思うんだよね。



●花巻のアマチュアビッグバンド「花巻リズムヤンガー」のボーカルを務めた


 私、花巻リズムヤンガーの初代の歌い手だったの。「バラのルンバ」だとかさ、「ビギン・ザ・ビギン」だとか。おふくろの実家が、これを立ち上げた平賀清一さんっていう人の家の前の家だったの。「ほれ、しんちゃん来て歌え」って言われてね。日本語で歌った。「ジャニー・ギター」なんかだば英語で歌ったかな。

 披露する場所は…花巻温泉の公民館あったんだよ。公民館って言ったかな。神社のとこをこう上がってって、右側のとこにあったの。そこでやったり。練習はね、平賀清一さんの2階でやってたったんだよ。隣近所から「ウルセー!」って言われてね。トランペットにサックスに本当にうるさいんだもん。清一さんという人は、トランペット、ギター、ハーモニカ、なんでもやる人だった。これ辞めてから今度は三味線教えてたの。何でもやる人だなと思ったった。



●宮沢賢治の初版本の悔しい思い出


 私賢治さんの童話の初版本をね、ゴムまりにかえてしまったんだなぁ。父親が買ってくれたんだけど、読むは読んだんだよ。それでもみんなのようにマリつくあれが欲しかったんだね。ところが買ってもくれないし、お金もないし。そしたら、中学校の講堂で物々交換の会があったんだよ。その本持ってったらね、マリ一つと取り換えてくれた(笑)。親父に怒られてさ。今考えても悔しい。あれ持ってればね。何にも価値もわからねでそんなことしてるんだもん。



●好きな食べ物


 田舎のものが好きだね。山菜。食べられない時代に育ったからさ、白いご飯が好きなのね。ご馳走だと思う。だから料理屋さんに行ってさ、五穀米だの出されるとさ、せっかくのお刺身は白いご飯で食べたいなとか思うんだよ(笑)。本当に貧乏性だよ、私は。米粒なんか入っているご飯食べたことなかったもの。戦中より戦後の方が大変だったの。食べ物がなくて。今だら何にも姉だっておふくろだって死ぬことなんてなかったんだけど、食い物がなかったんだもんね。今だば食べ過ぎて困るんだ。



【取材協力】中村萬敬さん
【取材担当】伊藤友季(ふるさと遺産研究所)
最終更新日: 2020年07月22日
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