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2013年8月17日 の記録
板垣 公さん【大瀬川地区】
投稿者:ふるさと 遺産研究所
カテゴリー:
土地の人に聞け
昭和26年に東十二丁目で生まれ、大瀬川で育ちました。ご自身のことや戸塚森の野外コンサート、大瀬川のイベント等についてお話をお聞きしました。
父の仕事
父の職業は、昔でいえば、馬喰。平成14年に亡くなった。馬喰とは牛とか馬の売買。仲介して。父は家は建てたから。背は小さかったけどきかなかったです。自転車にのれない。車の免許は無い。とにかく歩ける範囲内でしかできなかった。
うちはかまどだけれど、田んぼは4反歩しかない。昔は何とか食えたんだけれど、今は、4反歩では全然なんともならない。
本当に私が記憶にあるのは、ブルでおこすでしょう。松の根っこがまだ土手、畔に転がっているんです。そして水の便は非常に悪いし、日照りになると、なんぼ山王海ダムができても水がこないんですよ。今はパイプラインで水は入れれるんですが、家はちょっと中間ぐらい。それも田んぼ、昔はボツボツと離れたところにあった。枚数はあったが、車でこういって、こういって……。
養豚もやっていた。養豚もやっぱり儲からなかった。1頭、2頭だといいんだけど、何十頭となるとやっぱり。ヤギも飼っていた。
そういうのが無くなったときは、水道屋をやっていた。そのころ私も盛岡の水道屋に行っていた。一緒に盛岡の水道屋までいった。家の物置には水道の具財や工具がいっぱいある。
自身の仕事について
(花巻)北高にいった。学校では趣味のアマチュア無線とかそっちをむったりやりまして、中学校の2・3年生あたりから、電気関係には興味があった。
1番最初は石鳥谷の菊池電業さんに勤めて、電気の一般住宅のほうをまずやって覚えて。今度は盛岡の安全電業。いま2代目がやっている。あそこは北上工業団地とか、盛んに建つあたりだった。大きい現場ばかりだった。そこは弱電関係というより火災警報器とか放送設備とかそういうのを勉強した。教えられたり。盛岡なんだけど北上で仕事。でも冬は通勤が混んでだめだった。阿部電設(気)に変わった。昭和52年から、平成23年までだから、三十何年間。最初は5~6人しかいなかった。1番いたとき25,6人ぐらいだった。抱えている人数としては多いと思います。細かい仕事が多かった。工事士の免許を取ったのは、菊池電業のとき。1種。私が最後に行ったのは西南中学校。花巻市総合体育館のときに3.11震災があって。組み立て途中でストップして。天井材が津波に流されて1ヶ月ぐらい中断した。私は3月31日付で店を辞めた。
(その後)ハローワークにいって、職業訓練を受けて、職場実習にいったのが今の会社です。今は北上のさくらホールのすぐそばです。この会社も古いんです。昭和26年の創業です。今3代目なんです。私は主に工事を。だから結局肉体労働者でした。そっちのほうが頭を使うよりいい。怒こられるし、クレームはあるし、クレームはやっぱり上にくる。頭を下げたり、お詫びのものを持っていったり。退職する前に体調不良になり、入院して検査を受けたが、ただのパニック症候群だった。ベッドで寝ていても電話が来るんです。救急車で運ばれているときでも、電話がきた。仕事自体はいやだと思ったことは無い。おとといもここで盆踊りをやったときも一式(貸し出した。)
戸塚森の野外コンサート
戸塚森で野外コンサートを8回やりました。あのときの機材もある程度、舞台照明の機材もあるし、それをこの間、今の会社に持っていって、使ったりして。
戸塚森野外コンサートのポスターは全部とっているけれども、雨にあたって2回流れて後はやらない。スポンサーも何もバンドで一人、おらも出す。(お金を)出演者からも取る。出しても出たい。一人頭3000円だったと思う。
仕掛けたのは最初は佐藤正志さん。戸塚森からハンググライダーをやる気で資金を貯めていたが、新幹線が通ったためにできなくなった。で、音響機材を買うか、それを鳴らすならなんかやらないか。そこから始まった。
そのあたり私もミキサーとかアンプとか、用意していたから。最初は本当にささやかだった。足場は新堀の佐々正建設から借りて。佐賀建設から借りたこともある。ポスターは主に今の石鳥谷生涯学習会館(中央公民館)の広いところか、あと八日市振興センター(公民館)で手刷りなんです。シルクスクリーンでやった。私は車にスピーカーをつけて、盛岡市内を歩いたり。花巻にいったりして。二枚橋にいたので、家から出はる時に鳴らしながら。
8月のお盆過ぎに1回やったこともある。あとはお盆前。第1週の日曜日。土曜日は準備して。日曜日はリハーサル。12時から夜の9時まで。夜の照明もやらなければならない。大体のは私が持っていた。音響機材は佐藤さん。
雨が降ったのが2回、続けて流れた。10回までやる、そういう予定で最初から決めていた。10年経てば皆もどうなっているか分らないから。10回だけはやるべということで。とにかく夢中になってやるから、疲れも感じない。皆働き盛りだから。十何人でポルシェ(長安殿)でよく集まった。あそこを事務局にして。
始まりは昼の12時からスタートで、夜の6時ごろちょうど暗くなると、照明が入ってくる。9時まで休みなし。条例だか何かあって、それ以上音を出せなかった。風向きが悪いと石鳥谷の街まで聞こえたっていわれました。
賢治やまなし祭とやまなし
賢治やまなし祭を8月4日にやった。やまなし祭は今年で2回目。板垣寛さんのところへ(やまなしを)100本以上植えた。道路の畑の田んぼのくろのわきにずーっと植えた。おととしの7月末毎朝、賢治の会の人たちがきて、ユンボで掘って。植樹祭というのかな、60本植えました。植えて、5~6年で花が咲いて実がなる。小学校に前になんぼか植えさせていたので、実がなったと喜んでいました。
やまなしは飢餓対策で各家に植えさせたそうです。不作の時の食料として。わたしも食べましたから、食えないことはない。江戸時代から。大瀬川の何箇所かにけっこう太いのがある。花が咲いた咲かないってやっぱりあるらしい。この辺は凶作にもあってるから、とにかく実のなるものを植えさせたらしい。得之さんが詳しい。大瀬川でも餓死したのが何千人とかって記録に残っているから。実は晩秋に落ちる。本当に香りがいい。高さは10mほどか、あんまり大きくはなれない。成長は遅い。
大瀬川の盆踊り
大瀬川の盆踊り。大瀬川青年会の時からずーっとだから、20歳頃だから四十何年。ずーっとここで、小学校があるときは、小学校のアンプとか、スピーカーは使わせてもらって。電気もとれたったし。いま駐車場になっているところはみんな田んぼだった。あそこは車1台はいるくらいしか道がなかった。行灯を杭を立てて、大瀬川の公葬地までずーっとつけた。灯篭の見回り係りも居た。先祖の霊をあいつするんだから、五社森、大瀬川の人はほとんど、あそこへいくのだから。あそこからここまで(振興センター旧大瀬川小学校)。杭は昔、長木があった。その短いのを持っている人がいてそれを借りて、釘をさして引っ掛けて、背丈ぐらい。踊るとこはおけばいいが、そっちは引っ掛けなければならない。
あっちまで昔子どもたちは行きましたよ。肝試しとかで。(盆踊りは)わたし子どものころからやっているから。あのころは長木で櫓(やぐら)を組んでいた。いずれすごい人がいっぱい居ましたから。太鼓は、板を渡したんだとおもう。踊りは輪踊りです。ここの小学校が取り壊されたあとに、そこさ講堂が残った。あそこにスピーカーをつけたこともある。そしたら台風が来て、転がって落ちて壊れたりして。あそこは前は改善センター(体育館)のための駐車場だったんです。公民館が古くなって立て直すときに駐車場が振興センターになった。車を置くところがなくなったので、町が土地を買収か借りるかして、今の駐車場になっている。
盆踊りを盆にしなかったのは1回だけ。昭和51年か52年。「なんでやらなかった」と言われ、なんでやめたったかな?やっぱりやってということで、ずーっとやって。あそこの講堂だけでやったときは電気の容量が小さくなって、明かりをつけると電気が足りなくなるので、機材が電圧が下がると止る。アンプ止まったりする。昔はレコードだったから。何回もレコードをかけて。カセットにして、さらにCDにおとして今使っている。
1番あぶなかったのは、青年会の人員が少なくなってしまって、できなくなる。清流会といって42歳(厄年)までのグループにやってくれないかと声がかかってきたときに、そのときの会長はあまり乗り気ではなかった。盆踊りは先祖の霊もあるべし、子どもたちも喜ぶ。子どもたちの思い出のひとつとして残すためには続けなければならないということになった。こんど清流会が引き継いだ。それが今年で24回目です。ここにも曲がり角がきて、少子化の問題も、職業が多様化しているから盆休みのないひとも居る。
昔は景品はささやかなものでした。今は企業さんのやつもらえるし、出店もやるようになったから、やきとり、フランクフルトとか。参加者は今年は200人ぐらいかな。雨が降れば改善センターでやる。櫓を組めるから。ここは平成3年にできているから。以前は2日間やっていたが、石鳥谷の花火とぶつかるため、1日にした。
やっぱり見たことのない子どもたち、帰省している子どもたちがくる。普段こんなに子どもたち居るはずがない。こういうのはなくしてはまずい。どういう形であれ残していかなくては。ご先祖さまに怒られる。
大瀬川の民話クラブ
民話(昔話)のことはおととしいきなり得之さんにたのまれて今はもうしゃべれる人は居なくなった。いま使っているのは板垣寛さんのおばあさんのやつをメインにしている。話し手はもういない。5月に花巻ケーブルがきて、新しい物を3つ収録していきました。(紙芝居は)今10作あって、5作は依頼している。記憶だけではなくなってしまうから。
取材日:平成25年8月17日
取材担当:鹿川、高橋
父の仕事
父の職業は、昔でいえば、馬喰。平成14年に亡くなった。馬喰とは牛とか馬の売買。仲介して。父は家は建てたから。背は小さかったけどきかなかったです。自転車にのれない。車の免許は無い。とにかく歩ける範囲内でしかできなかった。
うちはかまどだけれど、田んぼは4反歩しかない。昔は何とか食えたんだけれど、今は、4反歩では全然なんともならない。
本当に私が記憶にあるのは、ブルでおこすでしょう。松の根っこがまだ土手、畔に転がっているんです。そして水の便は非常に悪いし、日照りになると、なんぼ山王海ダムができても水がこないんですよ。今はパイプラインで水は入れれるんですが、家はちょっと中間ぐらい。それも田んぼ、昔はボツボツと離れたところにあった。枚数はあったが、車でこういって、こういって……。
養豚もやっていた。養豚もやっぱり儲からなかった。1頭、2頭だといいんだけど、何十頭となるとやっぱり。ヤギも飼っていた。
そういうのが無くなったときは、水道屋をやっていた。そのころ私も盛岡の水道屋に行っていた。一緒に盛岡の水道屋までいった。家の物置には水道の具財や工具がいっぱいある。
自身の仕事について
(花巻)北高にいった。学校では趣味のアマチュア無線とかそっちをむったりやりまして、中学校の2・3年生あたりから、電気関係には興味があった。
1番最初は石鳥谷の菊池電業さんに勤めて、電気の一般住宅のほうをまずやって覚えて。今度は盛岡の安全電業。いま2代目がやっている。あそこは北上工業団地とか、盛んに建つあたりだった。大きい現場ばかりだった。そこは弱電関係というより火災警報器とか放送設備とかそういうのを勉強した。教えられたり。盛岡なんだけど北上で仕事。でも冬は通勤が混んでだめだった。阿部電設(気)に変わった。昭和52年から、平成23年までだから、三十何年間。最初は5~6人しかいなかった。1番いたとき25,6人ぐらいだった。抱えている人数としては多いと思います。細かい仕事が多かった。工事士の免許を取ったのは、菊池電業のとき。1種。私が最後に行ったのは西南中学校。花巻市総合体育館のときに3.11震災があって。組み立て途中でストップして。天井材が津波に流されて1ヶ月ぐらい中断した。私は3月31日付で店を辞めた。
(その後)ハローワークにいって、職業訓練を受けて、職場実習にいったのが今の会社です。今は北上のさくらホールのすぐそばです。この会社も古いんです。昭和26年の創業です。今3代目なんです。私は主に工事を。だから結局肉体労働者でした。そっちのほうが頭を使うよりいい。怒こられるし、クレームはあるし、クレームはやっぱり上にくる。頭を下げたり、お詫びのものを持っていったり。退職する前に体調不良になり、入院して検査を受けたが、ただのパニック症候群だった。ベッドで寝ていても電話が来るんです。救急車で運ばれているときでも、電話がきた。仕事自体はいやだと思ったことは無い。おとといもここで盆踊りをやったときも一式(貸し出した。)
戸塚森の野外コンサート
戸塚森で野外コンサートを8回やりました。あのときの機材もある程度、舞台照明の機材もあるし、それをこの間、今の会社に持っていって、使ったりして。
戸塚森野外コンサートのポスターは全部とっているけれども、雨にあたって2回流れて後はやらない。スポンサーも何もバンドで一人、おらも出す。(お金を)出演者からも取る。出しても出たい。一人頭3000円だったと思う。
仕掛けたのは最初は佐藤正志さん。戸塚森からハンググライダーをやる気で資金を貯めていたが、新幹線が通ったためにできなくなった。で、音響機材を買うか、それを鳴らすならなんかやらないか。そこから始まった。
そのあたり私もミキサーとかアンプとか、用意していたから。最初は本当にささやかだった。足場は新堀の佐々正建設から借りて。佐賀建設から借りたこともある。ポスターは主に今の石鳥谷生涯学習会館(中央公民館)の広いところか、あと八日市振興センター(公民館)で手刷りなんです。シルクスクリーンでやった。私は車にスピーカーをつけて、盛岡市内を歩いたり。花巻にいったりして。二枚橋にいたので、家から出はる時に鳴らしながら。
8月のお盆過ぎに1回やったこともある。あとはお盆前。第1週の日曜日。土曜日は準備して。日曜日はリハーサル。12時から夜の9時まで。夜の照明もやらなければならない。大体のは私が持っていた。音響機材は佐藤さん。
雨が降ったのが2回、続けて流れた。10回までやる、そういう予定で最初から決めていた。10年経てば皆もどうなっているか分らないから。10回だけはやるべということで。とにかく夢中になってやるから、疲れも感じない。皆働き盛りだから。十何人でポルシェ(長安殿)でよく集まった。あそこを事務局にして。
始まりは昼の12時からスタートで、夜の6時ごろちょうど暗くなると、照明が入ってくる。9時まで休みなし。条例だか何かあって、それ以上音を出せなかった。風向きが悪いと石鳥谷の街まで聞こえたっていわれました。
賢治やまなし祭とやまなし
賢治やまなし祭を8月4日にやった。やまなし祭は今年で2回目。板垣寛さんのところへ(やまなしを)100本以上植えた。道路の畑の田んぼのくろのわきにずーっと植えた。おととしの7月末毎朝、賢治の会の人たちがきて、ユンボで掘って。植樹祭というのかな、60本植えました。植えて、5~6年で花が咲いて実がなる。小学校に前になんぼか植えさせていたので、実がなったと喜んでいました。
やまなしは飢餓対策で各家に植えさせたそうです。不作の時の食料として。わたしも食べましたから、食えないことはない。江戸時代から。大瀬川の何箇所かにけっこう太いのがある。花が咲いた咲かないってやっぱりあるらしい。この辺は凶作にもあってるから、とにかく実のなるものを植えさせたらしい。得之さんが詳しい。大瀬川でも餓死したのが何千人とかって記録に残っているから。実は晩秋に落ちる。本当に香りがいい。高さは10mほどか、あんまり大きくはなれない。成長は遅い。
大瀬川の盆踊り
大瀬川の盆踊り。大瀬川青年会の時からずーっとだから、20歳頃だから四十何年。ずーっとここで、小学校があるときは、小学校のアンプとか、スピーカーは使わせてもらって。電気もとれたったし。いま駐車場になっているところはみんな田んぼだった。あそこは車1台はいるくらいしか道がなかった。行灯を杭を立てて、大瀬川の公葬地までずーっとつけた。灯篭の見回り係りも居た。先祖の霊をあいつするんだから、五社森、大瀬川の人はほとんど、あそこへいくのだから。あそこからここまで(振興センター旧大瀬川小学校)。杭は昔、長木があった。その短いのを持っている人がいてそれを借りて、釘をさして引っ掛けて、背丈ぐらい。踊るとこはおけばいいが、そっちは引っ掛けなければならない。
あっちまで昔子どもたちは行きましたよ。肝試しとかで。(盆踊りは)わたし子どものころからやっているから。あのころは長木で櫓(やぐら)を組んでいた。いずれすごい人がいっぱい居ましたから。太鼓は、板を渡したんだとおもう。踊りは輪踊りです。ここの小学校が取り壊されたあとに、そこさ講堂が残った。あそこにスピーカーをつけたこともある。そしたら台風が来て、転がって落ちて壊れたりして。あそこは前は改善センター(体育館)のための駐車場だったんです。公民館が古くなって立て直すときに駐車場が振興センターになった。車を置くところがなくなったので、町が土地を買収か借りるかして、今の駐車場になっている。
盆踊りを盆にしなかったのは1回だけ。昭和51年か52年。「なんでやらなかった」と言われ、なんでやめたったかな?やっぱりやってということで、ずーっとやって。あそこの講堂だけでやったときは電気の容量が小さくなって、明かりをつけると電気が足りなくなるので、機材が電圧が下がると止る。アンプ止まったりする。昔はレコードだったから。何回もレコードをかけて。カセットにして、さらにCDにおとして今使っている。
1番あぶなかったのは、青年会の人員が少なくなってしまって、できなくなる。清流会といって42歳(厄年)までのグループにやってくれないかと声がかかってきたときに、そのときの会長はあまり乗り気ではなかった。盆踊りは先祖の霊もあるべし、子どもたちも喜ぶ。子どもたちの思い出のひとつとして残すためには続けなければならないということになった。こんど清流会が引き継いだ。それが今年で24回目です。ここにも曲がり角がきて、少子化の問題も、職業が多様化しているから盆休みのないひとも居る。
昔は景品はささやかなものでした。今は企業さんのやつもらえるし、出店もやるようになったから、やきとり、フランクフルトとか。参加者は今年は200人ぐらいかな。雨が降れば改善センターでやる。櫓を組めるから。ここは平成3年にできているから。以前は2日間やっていたが、石鳥谷の花火とぶつかるため、1日にした。
やっぱり見たことのない子どもたち、帰省している子どもたちがくる。普段こんなに子どもたち居るはずがない。こういうのはなくしてはまずい。どういう形であれ残していかなくては。ご先祖さまに怒られる。
大瀬川の民話クラブ
民話(昔話)のことはおととしいきなり得之さんにたのまれて今はもうしゃべれる人は居なくなった。いま使っているのは板垣寛さんのおばあさんのやつをメインにしている。話し手はもういない。5月に花巻ケーブルがきて、新しい物を3つ収録していきました。(紙芝居は)今10作あって、5作は依頼している。記憶だけではなくなってしまうから。
取材日:平成25年8月17日
取材担当:鹿川、高橋
最終更新日:
2022年06月06日
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