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1935年9月0日 の記録
「あっち町こっち町」のこっち町(旧花巻町)のお話
投稿者:ふるさと 管理1
カテゴリー: 土地の人に聞け
在京花巻人第41号 『思い出コーナー』より

山巻 幸子
(花高女併設中23年卒)

 現在の花巻市の面積は、平成十八年(二〇〇六)、石鳥谷町、東和町、大迫町との合併によって、すぐには認識出来ない程の大きさになっている。それより以前、町であった花巻が、矢沢、湯本、湯口、大田、宮野目の五村を擁して、初めて市に昇格したのは、昭和二十九年(一九五四)であった。
 市になる前の花巻町は、別々の町であった「旧花巻町」と「花巻川口町」が合併して出来た新しい町だった。直接の連絡路も無かった二つの町を結ぶ新道が造られ、合併したのは昭和四年(一九二九)の事である。「旧花巻町」の南に隣接する「花巻川口町」から、北に向って、台地を掘って造った道とそれに続く坂道(新道)を下った所が旧花巻町である。(造られた当初は、新道には家が無かったが、後に家が建ち、新道も旧花巻町と呼ばれる様になった)私は合併後の旧花巻町に生まれ育った。

 この旧花巻町の表通りに面して、南から北へ坂本町、一日市、四日町、栗木町、川原町の五町があった。五つも町があると広いようだが、坂本町から川原町の端までは、大人の男性の足なら、せいぜい二十分程の距離なのである。この五つの町を貫く、旧花巻町のメインストリートとも言うべき通りは、川原町を除いて商店が多く、色々な店があった。魚屋、八百屋、酒屋、団子屋、菓子屋、そば屋、文房具屋、本屋、笊などを売る店、豆腐屋、薬屋、下駄屋、呉服屋、自転車屋、床屋、雑貨屋、女の子が喜びそうな塗り絵や風船、色紙など沢山並べた店。馬の蹄の手入れをして新しい蹄鉄を打ちつけたりする、金沓屋も通りに二、三軒あったと思う。他の店も大抵複数軒あった。他に旅館、歯科医院、内科医院、郵便局があり、通りには面していないが銭湯も二つ、近所の人々が洗い物等に利用する井戸もあった。その上駐在所もあり、つまり旧花巻町の人々は、概ねこの通りで日常生活が事足りていた様である。この通りを含む狭い旧花巻町が幼い私のまさに全世界であった。

 この表通りと並行して西側に、一日市に一本、四日町に二本の通りがあり、東側には瀬川の川沿いに、一日市から川原町まで続く道が一本あった。私の家は四日町の西側一本目の通りに面しており、すぐ側に、高い火の見櫓のある番屋があった。火の見櫓の屋根がヨーロッパの教会の様に先端がとがっていて、町のどこからでも目に入るので、旧花巻のシンボルとも言うべき存在であった。民家は平屋かせいぜい二階建てで、幼い私には、櫓は三階か四階ほどの高さにも見えたものだ。番屋にいた消防の人に、「上ってみたいな」と言ってみたが、火の見迄は窓のない塔の様になっていて暗いし、木の階段はもう古くなって、危なくて消防の人でもあまり上りたくないのだと言われてしまった。

 番屋の側にお稲荷さんの鳥居が立っていて、その奥の通りに神社があった。杉の木に囲まれた境内には、お神輿を納めてある庫と神楽の舞台があり、それ程広くはないが、子ども達にとっては格好の遊び場で、いつも子ども達の声が聞こえていた。或る日、高い床の社殿の床下に、立派な作りの木の船が置いてあるのを見つけた。こんな所に船?とびっくりして毋に聞いてみると、昔大洪水があったらしく、そのための備えの船だという事だった。

 幼い私達にとって、一番の楽しみだったお稲荷さんのお祭りは、旧花巻町にとっても最大のイベントであった。お祭りの前夜は宵宮で、参拝する人が絶えず、いつまでも明るい神社周辺と町の通りなど、普段と違う雰囲気が嬉しくて、何か浮き浮きと夜遅く迄、外で遊んでいたものだった。翌日は、いよいよお神輿の行列が通るお祭りの日である。この神社のお神輿は、大きくてとても美しく立派なものであった。お神輿が庫から出されると、神様を神社からお神輿にお移しする式があるというので、見に行った。笛の音が聞こえる中、神主さんが、神様に息がかからない様に白い紙を唇にはさんで奥殿の方に進むのまでは見たのだが、誰かに「神様を見ると罰が当たるよ」と言われたのを思い出し、恐くてその後はどうしても顔を上げる事が出来す、息をつめて下を向いていた。しばらくして、大人達が顔を上げた気配で、神様がお移りになったと分かり、ほっとして顔を上げた。お神輿を担いだ人から、神様が移る前のお神輿はそれほど重くないが、移られてからは重くなると聞かされて、子ども心に、神様は本当にあの神社にいらっしゃるのだと思ったものだ。お神輿の行列は、頭に烏帽子をかぶり、いつもとは違う第一級正装で馬に乗った神主さんの両側に、天狗の面をつけ、一本歯の高い足駄を履いて、大きな杖を手にした人や、ほら貝を吹く人がいて、その後を、白装束をつけた人達に担がれてお神輿がゆっくりと進む。はっきりした記憶ではないが、神様御供物などを持った人達や、裃をつけた氏子総代や町の人達、お化粧をしてお祭りの半纏を着た子ども達もいた。後に鹿踊りが続いていた。神様は時々お休みになる場所が決まっており、行列が出発して最初にお休みになるのが私の家であった。毎年お祭りの日は、玄関に置かれた大きな台の上にお酒やら食べ物を沢山用意し、馬から降りた神主さんを先頭に、行列の人達が門を入って来てお酒を呑み、食べ物をつまんで 一休みするのだった。高い足駄を履いているため一段と背の高い天狗さんが目の前に来るので、めずらしいやら恐いやらで、私は母の影に隠れる様にして見ていたものである。
 私が小学校に入って間もない昭和十五~六年頃は、神社の境内の入り口近くにはお祭りの幟が立っているが、山車もなく、祭り太鼓の音はするものの、賑やかなお囃子もあまり聞こえて来ず、ハッカパイプなどを売る店が出ていたりする程度の小さなお祭りであったが、夜には神楽が見られた。同じ九月に催される鳥谷ヶ崎神社のお祭りではお旅所が設けられ、その周りにはサーカスがいくつもかかり、露店も沢山出て、各町内から出る太鼓の行列が練り歩く。鳥谷ヶ崎神社のお祭りは、そうして三日間も続くのだが、それに比べるべくもないお稲荷さんの、ささやかな一日だけのお祭りが、私達旧花巻町の子どもにとっては、翌年を待ちわびる程楽しいものなのであった。

 お稲荷さんの隣には、広隆寺と順覚寺と二つのお寺が並んでいた。広隆寺には大きな銀杏の木があり、夜にはふくろうが鳴く声が聞こえると聞いていたのだが、私は一度も聞いた事がなかった。広隆寺の墓地を抜けてお寺の裏に出ると、視界が開けて、家もなく畠や雑草地が広かっていた。少し先に行くと、広い馬検場があり、周囲に低い柵をめぐらした中に、いつも馬が何頭かつながれていた。たまに沢山の馬が集まっている事もあり、嬉しくて飽きずに見ていたものだった。馬検場から少し先へ行くと小川が流れていて、土橋を渡った道は、後に北高となった当時の中学校へ行く坂道へと続いていた。この坂道は、私か北高に通学していた頃は、なだらかでだらだらと長い坂になっていたが、当時はもっと短く急な坂であった。見上げると、中学校の白い校舎とその北に続く松林、馬検場の馬、小川の側に建つ一軒の農家。幼い心に刻まれたあの風景の記憶は、ゆったりと流れる時間と広い空と共に、いつまでも消える事はない。      

※写真は昭和23年の花巻稲荷神社のお祭りの四日町の山車
最終更新日: 2015年03月13日
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