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2012年1月18日 の記録
伊藤 栄一さん【花南地区】
投稿者:ふるさと 管理1
カテゴリー: 土地の人に聞け
昭和4年生まれ。市内の不動産会社の代表をしており、花巻市議会議員や岩手県議会議員もつとめた。



マルカンの社長さんについて

 マルカンの社長は、豊沢町の床屋さんさお婿さんに来たんです。マルカンさんは非常に経済人だったので、いつでもですね、物を仕入れる時はいつでもここさ(お腹を指して)百万円を持って、物を仕入れる時に現金を見せて、そして10円の物は8円にたたく、5円の物は4円にたたく。今のマルカンさんは三軒目です。昭和二十七、八年から三軒目です。

 最初は床屋さんさ来たもんだから店はなかったわけですね。自分で物を買って来てね、行商みたいな仕事をしてたんだけど、店を持ちたいということで、小田島さんという隣の薬やさんとこさ店開きましたった。それから今の北日本銀行のところさ移りました。二回目はね。そして今のとこさはですね、昭和32年頃ですか。あそこには箱庄さんの、醤油屋さんの工場があったたんです。今のマルカンのとこね。今も箱庄って言う醤油屋さんはあるけどね。そこさ落ち着いてマルカンを建てました。で、そこさ建ててからもうボンボンボンボン商売を繁盛させてね。

 マルカンさんはいつもここさ(腹を指して)金入れてる人でしょ。だからいろいろエピソードもあります。私、マルカンさんと海外に行くとね、いつもここさ入れてるわけだ。でも税関を渡るとき金いっぱい持って渡れないでしょ。そうするとね、「伊藤、おめ30万、藤沼30万。」って渡すわけですよ。そして税関通った後「あの金よこせ」と言われても、「おらしらね、預からなかった」と言ってあらがうんですよ。「この野郎、おめさ30万やった。」「おら知らね。」といって、ケンカしたごとある。おもしろい男だった。

 アルテマルカンは、あそこは私がお世話したんですが、仲介料を貰うでしょ。(私は)商売だから。土地を世話したんだから。そうすると商品券でよこすんだよ。商品券だば、またマルカンさ行って買わねばねわけだものね。ま、徹底した商人だね。商工会議所の副会頭もしたしね。佐々木四郎さん(マルカン社長)と知り合ったのは、ここさ不動産会社ひらいでから。毎日のように行ったり来たりしてだったんですよ。必ずここさ寄ってね、いろいろ話して。やっぱりあれだけの商人は花巻さ出ないね。


 
市議会議員に立候補した時

 市会議員する前に、一日米一俵売りたいと思ってね、一俵60キロね。その当時で一俵60キロで八千円ぐらいだったんですよ。それで365俵作って売ってね。それで市会議員に出てみねがというので、出たんです。

 私ね、市会議員に獲れたらね、ロータリークラブの社長さん達がね、おめも一人前にならねばねんだといって、ここの会社を、二千五百万の資本金で会社つくったんですよ。市議会議員になってがらね。おめ不動産の免許取ってだはずだから、会社つくってやるって、岩館電気さん、伊藤染屋さん、それから赤藤さん赤沼さんね、それから藤田屋カメラ屋さん、それから熊谷伝次郎って副会長してたんだ、それから新渡戸新三郎先生弁護士のね、その人達九人と私を入れて十人でつくった会社なの。昭和46年。そのとき初めて市議会議員やって、五期やりましたよ。二十年。今度は県会議員、一期つとめました。私が市議になったのは、市長が八重樫利康さんの時です。「栄一くん、おめの一般質問は声は高くていいども、内容は全然だめだぞ。」とくられだった(怒られたった)。
 


宮澤賢治さんについて

 宮澤賢治さんについてはですね、やっぱり一般の人から見ればね、ちょっと変人だったんだよね。桜町と賢治さんの付き合いは、賢治さんが肺を病んで空気のいいところ、見晴らしのいいところに置きたいという父親の政次郎の考えで桜町に来た人なんですよ。病気治すためにね。そこで羅須地人協会を開いたわけだ。で、桜町の人たち集めて、そこで羅須地人協会がいろいろなことを教えて。女関係はぜんぜんなかった。いや、賢治さんを慕った女の人もいたったんです。うちの親父は賢治さんと同じ年まわりだから、同じ年です。学校は違いますよ。賢治さんは花城小学校だし、うちは根子尋常小学校だから。

 桜の若い青年達を集めていろいろな事を教えたり、詩を書いたりして。今行ってみればわかるけどね、弥助橋って言って、堰があってね、そこの弥助橋を作る時に部落の人達と一緒になって働いたという。今書き物も残っています。同心屋敷のところは私の先祖の畑なんですが、そこは清水甚平さんから買って、そこさ今、同心屋敷が建っています。



桜の兵舎

(桜町に移動して兵舎跡を案内していただいた)
今、市営住宅になっているけど、ここが兵舎なんです。

〈現地にある看板より〉
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盛岡工兵第八大隊演習場廠舎沿革

 かってこの地に盛岡工兵第八大隊の架橋演習場廠舎があった。
 明治四一年、当時の根子村・矢沢村・花巻川口町・花巻町が共同で六千坪の土地を提供して誘致し、昭和十二年廃止されるまでの約三十年間、北上川、豊沢川を利用しての架橋演習場廠舎として使用されてきた。
 大正四年には北白川の宮様が陸軍大学在学当時約一週間宿営された記録も残されている。
 なお地域の人々からは通称「桜の兵舎」と呼ばれ、桜の大木が数十本もあったことから近在随一の花見の名所でもあった。

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舟が沢山あってね、そこでここから出はって、豊沢川と北上川の合流点で演習したんですよ。
兵隊さん達は、朝起きて歯磨いたり顔洗ったりするのはね、瀧清水神社。今も瀧の如く流れています。



【取材担当】丹後・伊藤
最終更新日: 2020年02月27日
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