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2011年10月5日 の記録
小原 正通さん【八重畑地区】
投稿者:ふるさと 管理2
カテゴリー: 土地の人に聞け
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昭和12年生まれ。石鳥谷役場を退職後、八重畑の習俗編纂に携わる。また、淵澤能恵(ふちざわのえ)を顕彰する会の一員として、韓国女子教育に尽力した淵澤能恵の顕彰活動も行っている。



<八重畑の先人・淵澤能恵について>

*アメリカへ渡る

 石鳥谷の淵澤能恵は八重畑育ちの関口生まれの人。この人は日本で女性が一人アメリカに渡って西洋の学問を勉強するなんて考えられない時代、明治初年にアメリカに渡った人です。福沢諭吉が書いた本に『西洋事情』という本がありまして、その本を読んだ所、日本はこれではダメだ、西洋の勉強をしなくちゃ。日本語だけではダメだ、英語を勉強をしなくちゃ、アメリカで勉強したい、それ一点で行ったそうです。

 能恵は、5・6歳の子どもの時、百人一首を暗記したというような、生まれながらにして非常に頭脳明晰な人。釜石にお兄さんを頼って行って、お兄さんと話をした結果、G・パーセルというアメリカの鉄道技師が日本の釜石さ来て、釜石製鉄所から港へ荷物を運ぶ鉄道を敷く為に、指導に来ていると。その人の家政婦になったらどうだということで、お兄さんが交渉した結果、「いいですよ」と。ただ、G・パーセルは、鉄道の敷設が終わったら自国に帰るもんですから、鉄道が出来てアメリカに帰る事になったところ、(能恵は)「私もアメリカに行って勉強したい」ということで、船に乗ってアメリカに渡った。

 ところが、G・パーセルの奥さんがこき使い、とっても家政婦としてそこで勤務することが難しいということで、別なところに行って家政婦をした。そこで、朝夕早く起きてキリストを勉強しなさいと。宗教を勉強をして、洗礼を受けて、キリストの指導者としての資格を持った方がいいと言われた。日本の養母に帰ってきてと言われて帰ってきたけれども、淵澤能恵の家も八重畑の広済寺というお寺だったんだけど、アメリカに行って勉強してきたことを誰も褒めようとしなかった。日本の仏教だば良かったけれども。


*同志社女学校へ入学

 養母と共に京都に行って同志社女学校に入ったんですね。英語の文法とか学問をもっと勉強したいということで京都の同志社は英語を専門に指導する学校だ。同志社女学校を創立した人は新島襄という人で、アメリカで英語をちゃんと勉強してきて帰ってきてから同志社女学校を創った人なんですね。そこに行けば英会話だけでなく、文法的にもちゃんと指導してもらえるということで入った。ところが32歳頃に入学したものですから、姉さん的な同級生だったそうですね。大変同級生の指導にも力を入れた。去年(H22)同志社大学に入って図書館だとかを調べてきたんだけど、同級生や下級生の人が“淵澤能恵さんに指導してもらって大変よかった”と文集に書いていたんですね。それを見てはじめてわかったんですけど。


*韓国女子教育への思い

 東京から、熊本県、福岡県で女学校で英語を教える教員になったんですね。そうしているうちに、韓国に行って婦人会を組織するために行ってみないかと誘われたんですね。じゃあ行きましょうということで、韓国へ行って、日韓婦人会というものを組織したんだけど、組織する過程でですね、日本では寺子屋というのがどこにでもあって、お寺さんだとか小さな建物で男も女も教育しておった時代。ところが韓国では、そういう寺子屋的な学校はあったけれども男子だけだった。韓国ではどうして女性は入らないのか、日本では女性も勉強しているよと言ったところ、女性は結婚して子どもを生んで、旦那さんの料理を作って、裁縫ができて家族の衣服を作ればよい。女性というものはそういうものなんだといったことを言われて。

 国の発展のためには女性も男性も同じ勉強をしてもらわないと国の発展はありえないのだと。女学校を創らなければならないと発想をしてですね、貴族とか華族など上流家庭の家をまわって歩いて、そういう教育が必要だと説得して寄附を募って、女学校を創っているんですね(現在の淑明女子大学校)。数年して女学校からいろんな学校に校名が変更になっているんですけど、その過程で、日韓併合って日本が植民地化したんですね。日本の総理大臣とか、韓国の総督府を日本から連れてきているんですね。たまたま岩手出身の後藤新平と斎藤實が日本から韓国へ行っているんですね。50数名で写真とった中に、紅一点、淵澤能恵だけが写真に写っているんですね(大正14年に京城総督府官邸の庭で撮影された写真)。総督府にお偉い方々がいる中で、韓国で一生懸命やっているということで淵澤能恵も来てくれと言われて、記念写真におさまっているんですね。


*なぜ淵澤能恵は顕彰されてこなかったのか

 八重畑村誌というのは大正年代に発刊した本ですけど、この中で全く淵澤能恵とは誰だかというのはちょっとしか触れられておらず、名前も「ノエ子」となっている。村誌でも執筆者が誤っている。宗教的な関係で全然褒めていない。

 淵澤能恵の研究者はあまりいない。我々が教えている。平成14年からです。淵澤能恵を顕彰しようとなったのは。

 韓国でもなぜ淵澤能恵について声をあげないのか。韓国の女性のために一生を尽くして、学校をまだ退職しないうちに、86歳まで韓国のために尽くして亡くなったのに、なぜ顕彰しようとしなかったのか。これには原因があって、日本は豊臣秀吉の時代から朝鮮征伐をやっているんですよ。今は2つに朝鮮が分かれているが、まだ分かれていないうちに能恵は行っていて、韓国人のために勉強したんだけど、昭和の時代まで、韓国を日本が植民地化していたと。韓国が本当に日本人に苦しめられたという意識が今でも学校教育の中にあるものですからね。だから韓国人は淵澤能恵を極端に褒めようとはしないですね。淵澤能恵は韓国に行って学校を建てて、日本政府からも金をもらって、次々と建物を作ったんだけど。

 中には、淵澤能恵を慕っている人はたくさんいる。それは、学長になれ、と言われても、絶対私は学長にならないと。昼は国語・算数・理科・社会とかを教えて、学監だから、夜も学校で寝泊まりして、夜は、料理・生け花・お茶・裁縫という女性の嗜みを勉強させたと。そういう先生はないということで言い伝えになっているそうです。

 だから私たちは、韓国友好の推進のためにも、淵澤能恵を顕彰する心を持たなくてはならないと進めているわけです。




<八重畑を救った・中村久三郎>


“……いつの頃からか、権現堂山裾野一帯は、牛馬の飼料、秣場として村人の生活の重要な資源供給地となっており、牧草(飼料)の収穫の多少はその村人の死命を制していた。営農のため、飼料・厩肥作りには、草刈場が不可欠だった。1736~1740年の元文年間の七年余りに渡って、その草刈場を巡って騒動があった。……”
(佐藤和彦『久三郎伝』より)

 中村久三郎は盛岡城に行って直訴するために、盛岡城からお殿様が出る門前に行って、直訴状を手にもって高く挙げた。ところが、見てみないふりをして家来とともに素通りした。それではダメだということで、二番目に行く場所もわかっておって、走っていって、また差し伸べたところ、お殿様がそれを取上げてくれて中を見たと。そうしたところ、現地を調査する必要があるということで、家老を八重畑に派遣して調査させたと。その結果、八重畑の人たちが国から土地をいただいて草刈り場として利用していたにも関わらず、よその村の人が来て、夜が明けないうちに来て草刈りしておったということがわかった。それではダメだということで、盛岡城主から肝入りに命じて、それを取上げてもらって、八重畑の人たちがその後草を自由に刈れるようになって、家畜の餌や肥料にする草が十分確保できた。

 盛岡城に行くとき、中村久三郎は白装束で、処刑されることを覚悟で行くということで、家族と集落のみなさんと水盃を交わして、これをどうにかしなければ、八重畑はますます貧乏になるからダメだということで、盛岡城に出発したということになっております。

 今、石にも刻まれておりますし、伝承されている。だけども、なかなか誰もしゃべる人がいなくて、私は八重畑小学校の総合学習のボランティア的な指導員としてお願いされて毎年行って八重畑一周しております。私は現地で子どもたちにお話する。やっぱり学校で話をするのと、現地で伝説の話をするのとぜんぜん違いますからね。




<東雲橋の歴史>


 八重畑橋(現在の東雲橋)は昔は木の橋だったんだけど、八重畑の人たちは花巻の人たちとなかなか仲良くできなかった。発展するためには、花巻と共に歩まなくちゃならない。そのためには、橋を花巻に作らなきゃいけない。橋を作るには大変お金がかかる。木材を買うには八重畑は貧乏だったので、橋を作るのは大変だけど、なんとしても作らなきゃならないと。

 村会議員をしておった小原由五郎という人が頑張ったんですけれど、たまたま盛岡の明治橋という橋があるんですけど、盛岡では木の橋を取り壊して、コンクリート橋にしなくちゃいけないという話が、私のおじいさんの知人から教えられたんですね。それて盛岡の議会に行ったり、役所にいったりして、何とか橋を譲り渡してもらいたいということで、一人行ってもダメで、二人行ってもダメで、八重畑の議会の人たち約三分の一が行ってお願いした。その結果、本気だなということが伝わって、盛岡から払い下げをしてもらって安く買い取って。当時は馬車の時代で、馬車だと日数もかかるし大変だからということで、北上川にこの木材を水を利用して流して、八重畑に来てからそれを引き上げた。そしてそれを復元して八重畑橋を作り上げたと。八重畑の人たちは、盛岡の橋を頂いて大変ありがたいということで、“兄弟橋”と呼んでいた時代もありました。

 この時代は八重畑橋なんですよ。八重畑橋というのは、ここ(小原さんの自宅)のすぐそこにあったんですよ。花巻の葛に行くように架かっていたんですよ。しかし、大洪水の都度、木材で作った橋はすぐ流された。八重畑の村長であった佐藤徳右衛門という人が道路の専門家に相談して聞いたところ、「八重畑橋はここにあるから流されるのだ。水がカーブしたところに橋を架けると流されないよ。そこに橋を架けなさい」と。それで、今現在の花巻農業高校の所。前の橋のあった所から250mくらい上流にすれば、橋を流される率が少ないでしょうと指導を受けた。それが認められて、橋を上流さ移動した。

 その時に村長が、橋の名前を別な名前にしたかったようです。県、国の補助も頂いて作る橋なので、県庁に行って当時の国分謙吉知事に相談した。まずその場所を見ないとということで、いつか君のいうように行くからということで、八重畑に来て見た。昔は狐、狸がものすごく居て、本当に寂しい山だったのです。そこに橋を作ればいいとしゃべられたから村長もびっくりしたんだけど、橋流されねということだからいいんだと。それで、国分謙吉が現地を見ると、川の西の方から八重畑を眺めてみて、これは場所は良い所だ。ここに橋を作るには大変良い所だ。橋の名前は、権現堂山も見えるし、東の雲が非常によく見えるし、東雲と命名したらいいだろうと。そして現在“東雲橋”となったと言われているんです。



【取材担当】 丹後・伊藤
最終更新日: 2021年06月14日
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