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2011年12月13日 の記録
阿部 彌之さん [花西地区]
投稿者:ふるさと 管理1
カテゴリー: 土地の人に聞け
昭和21年生まれ。大船渡農業高校校長を退職後、父親のリンゴ農園を引き継ぐ。



リンゴの木について

 私が聞いているかぎりは、花巻は結構りんご早かったみたいなのさ。やっぱり城下町で。青森のリンゴなんか見てくと、士族がやっぱりりんごを、先見の明っていうかね、園芸とかそういうのを取り入れているっていう歴史があるのさ。

 りんごは明治になってから輸入しているものだから。殖産興業っていうやつで、新政府が大量に輸入しているわけ。宮沢賢治はちゃんとした書き方しているんだけども、西洋りんごと地りんごの違いっていうのは字ではっきりしていて、西洋りんごは“苹果”。草冠に平、これが西洋りんご。地りんごは“林檎”。和品種は今も山にあるんだけど、ちっちゃいの。岩手山なんかにもある。

 昔、家の近くにもりんごの木があったったけど、材料としてはリンゴの木は最高なんだって。ホワイトハウスなんかでも、客人によって燃やす木が違うんだって。リンゴっていうのは最高級らしいね。香りも、変な匂いがしなくって、硬くて、火力が強い。確かにね、乾いたリンゴの木なんかすごいよね。硬さが。ナシの木とおんなじ仲間なんだよ。ヤマナシの木なんかどういうところに使うかっていうと、ああいう「さん」のところに使うんだよ。要するに開け閉てするところに使うんだよ。硬くてすべる。あとは、炉端の炉の周り。これはナシの木って決まってるの、日本では。それとおんなじように、リンゴの木も、でもリンゴは古来日本にあったもんじゃないがらね。まっすぐじゃないし、大工さんも使えない。大きい木もなかったがらね。前に青森のリンゴ試験場にあったったけども25〜30m。ただ、そんなにして栽培すると、リンゴなんか届かないべ。いずれ本来は木としても使えるんだけど、ただ日本では使えるような歴史がなかったの。でもこの辺のリンゴ農家はね、うちもそうだったけれど、昔、薪を使うような時代は、みんな薪なんかには使ったよ。薪ストーブとか風呂にね。



父親の話


(聞き手:お父さんは光太郎に阿部の大将って呼ばれてたそうですが)

 いやいや、大将っていう言い方はね……。光太郎ってさ、軍人と商人は個人的に大嫌いだったそうだ。だから、なるたけそういう人達だけの集まりとかには出ない。だけども、うちの親父なんか兵隊に2回も行っている。終戦間際は今の三沢に。そういう所から戻ってきて、光太郎のことを紹介されたということもあるので。ただ兵隊のそういう話をするためにいっているわけじゃないしさ、必要なのは、農業のことだったり。だから、どっちかって言えば、ああいうふうな人間を光太郎は話し相手にしてたったんじゃないかな。

 りんごやったのはもっと早いわけ。ここは昔の農学校のすぐそばなわけ。花巻農業高校のそもそもの出発点が、養蚕講習所なのよ。養蚕を教える。これは当然、米と繭が日本の農業の特色だったわけだから。繭は換金作物として、宮澤賢治もやったんだよ。だれもがやってたその時に、農学校の養蚕実習のためには、人が必要なわけ。うちの親父が農学校に入ったのは、賢治が辞めてからなんですよ。賢治がやめてからだったんだけど、ここ農学校の近くなわけだ。養蚕のことの実習助手か何かで教えてくれって言われて、その時行ってたわけ。そしたら、当然にも昭和恐慌で繭価なんてガタンって下がって不景気なわけだ。その時の作物がりんごなのさ。最初が桑畑で繭。一番先は明治のはじめは全国でりんご作ったんだよ。北海道もそうだったけど、苗木は2ヶ所にあったんだよ。一つは東京。一つは函館の七飯の農場。その2ヶ所が新政府が育苗するために輸入したものを入れて、そこから回したの。

 かつて親父がアメリカ行ったりなんかしながら、手広くやろうとして、光太郎とのこともあって、奥に10〜15haの作ったんだけども、2回植え付けたんだけども、結局、兎とか野ネズミとかに喰われるわけよ。今まで何も無い林だったところを開いて畑なんか作れば、そこにいた動物なんかは追いやられて、戻ってくるわけじゃない。今頃だったら少し減っているかもしれない。土もなんぼかずつ落ち着いてきているかもしれない。

 ふじなんかだってね、一本の木からなんだよ。これだけ世界のふじになるくらいに、次々と増えてっているわけだけど、原木そのものは、今は盛岡に移しているけど、そもそも青森の藤崎っていうところで“ふじ”。そこの時の原木を、盛岡に試験場が移った時にもってきたやつはね、なっているりんごは赤くないんだよ。だんだん時間経って品種改良してきて色がつくようなやつを食べているって思ったほうがいい。



父親と島善鄰との出会い


 ここに組合作ったわけ。それはうちの親父が作ったんじゃなくて、その前からあったみたい。戦前は、今の農協っていうのも産業組合だったわけだ。これってやっぱりそれらしい時代の要請でできたわけだけど、共同購入だとか共同販売だとか、そういうのの中でやっぱり生産技術をちゃんとしたものを持たなきゃだめだと。さっき言ってた農学校で養蚕の教員やってた時、蚕の方が不景気になって養蚕ではだめだとなって、先進地では、例えば長野なんか含めてさ、あちこちでリンゴに変えて行くなんて動きがあった。その時、寒いここら花巻あたりではそれいいんじゃないかって、青森のリンゴ試験場で勉強してはどうかというようなことを言ってた時に、自分が勉強すると言って行った。その時に島善鄰はそこにはいなかったよ。札幌に戻ってしまって。ただ島善鄰が教えてた技術者、研究者達がいて、岩手の花巻から阿部というのが来た。島先生も花巻の出身だということで、ものすごく可愛がられた。島先生、島善鄰もしょっちゅう黒石、青森に来ていた。東京に行くついでの時とかね。それで弟子のように可愛がってくれて、教えてくれた。そう言う事で、生産技術のことは、自分がまだ未熟なときは青森の方から技術者というか、優れた技術を持ってる人達を呼んだりして、紹介してね。そしてこの花巻地区に、ある程度の高いレベルの生産技術を作ってったと。こういう経緯はあったようだ。

 そして合わせてその時につくったのが組合で、その組合というのが、たぶんね、たぶんだよ、ポランの広場とかそういうのにあるように、ファゼーロとかが組合を作ってとか、ああいうものを意識していたったと思う。ただそれはね、親父がスタートしたんじゃないんだよね。その前からそれらしい生産者のね産業組合のようなのがあったみたいだね。そして宮沢賢治の後に、南城にもそういうのがあったんだよ、南城共同村塾。それは松田甚次郎に学んでるんだよ、あっちの人達。たぶんそういうところの交流っていうのが、親父なんかの世代にはあったんじゃないかなと思う。

 照井謹二郎さんが元気だった頃、あの人もあっちの出身だがら、一生懸命やってだったって聞いてだった。南城地区は何よりも奥州街道の沿道だってことがあると思う。だから早くから貨幣経済の中に巻き込まれてるんだと思う。まっ、そういうことで、生産者の役に立つ組合という事で。そして花巻果樹農協という名前にして、稗貫郡全部の人達に関わってたわけだ。だから八重畑の人達とかさ、戦後間もなくはいい時代だったんだと思う。その後もね。ただ、やっぱり60年から貿易の自由化とかで、多様な果物が食べられるようになって、当然のことだと思う。りんごだけじゃないわけだから果物は。いっぱいあるわけだから。

 将来は、大きく2極分解だと思う。一つはね、贈答用でいいっていう人もいるだろうし。やっぱり日本の優れた技術は、中国の富裕そうじゃないけれど、高いお金だして買っても良いっていう人たちは大勢いると思う。ただ、それだけではなくて、安くて普通に食べられる外国のものを食べればいいって言っているけども、そうじゃなくて、それぞれの国でどっちも作るべきだろうと思う。本当に芸術作品のようなりんご作ってもいいし、俺が考えている風に、小さくても丸ごと美味しく食べられるようなのと2つに分かれていくんじゃない。そして、俺はね、無くならないと思うね。ただ、今言ったように、生活がそれほど特別儲かるとか何かっていうのはあり得ないと思う。だから色んな意味で、むしろそういうことをしても“楽しい”も含めてやっていけるようにすれば、そういう面で人と直接つながっていくようなことがね、顔の見える販売とか、そういうもので残っていくしかないんじゃないかと思う。



阿部の姓について


 なんで阿部かというと、私の想像ですけど、明治期までは名字なかったでしょ。石神の鼬幣稲荷神社の神主が、阿部有孚(あべのゆうふ、ありたね)っていう人だったんですよ。その人は名字がちゃんとあったわけ。その人は、今はもう亡くなったけど、最後は高知大学の学長までした人で、賢治の時代の阿部孝ですよ。阿部の孝はガマ仙に似るっていう。その名字をみんなもらったんじゃないかなと思うわけです。みんな氏子だったから。どうも、その阿部有孚という人は江刺の方から来ったんじゃないかと、県南の方から。そしてこっちに居着いて神官になっている。それでじゃないのかなと思うけどわからない。これは推測です。だれもそうだともいわないし、そうじゃないともいわないので。

 及川も江刺からきてるんだけどね。そしてここにかつて、県知事いたったんですよ。阿部千一って。ここが古い屋敷だったらしい、ここが。そしてその人のお父さんが阿部晁っていうんだけど、宮澤賢治の頃に学校の先生をしていたんです。仙台の二高の医学部だかに入ったんだけど、家庭の事情でやめて帰って来て、そして小学校の代用教員をずっとやってだったの。



平賀千代吉について


 俺の親父も平賀千代吉はすごく尊敬していた。俺も連れて行かれた事あるけど、太田にいた頃。平賀千代吉は慶応の幼稚舎から東京にいた人なんだよ、ほんとは。地主ってどうしなきゃならないのかを、同級生なんかからいっぱいまなんでるわけよ。平與がもう一つすごいのはさ、天神さんのところに伊藤鶏路なんかを呼んで、あそこに茶室も作ってさ、西公園だよね、それこそ。東公園は鳥谷崎さん。西公園は豊沢川を見るとこだったんだから。文化人だったんだね。あの辺の土地全部今でも平与の土地。ま、お母さんを早く亡くして、東京に行ってたらしいけど、ダム作るときの役人なんか、ほとんど同級生の何かとかそういう関係で通じていたというし。

 なんで親父が平賀千代吉という人を俺に教えようとしたかと思えば、ちっちゃい俺のことを連れて行って教えようとしたかというと、あの人はダムの補償については、自分の財産を投げ打ってまでもしっかりしなくてはダメだという考えだったらしいんだ。そのために、土地改良区の中心で、ダムの責任者だというために、平与のあたりにデモのように大勢の人が押し掛けたものらしいんだよ。それに対してね最後まで、補償については責任もって、だからダムに水没してこっちに移って来た人達は、かなりいい生活してる部分もあるんだよ。土地なんかも、南万丁目にもあるし、松園町にもあるし、高田や矢沢にもあるけど、俺見てるとね、すっごく良心的にやってくれた方だったんじゃないかなと思う。「ああいう人にならないと」っていう言い方で、言われたった。すごいちゃんとした人だった。だから千代吉さんの碑をつくってうちの親父は死んだんだよ。病気を押して、入院してるのを押して。その夏、ひでりなんかもすごかったので、この時だったら米なんか大変なことになってても、みんな水には感謝するだろうということで、自分の最後の仕事にしたいと思って、歩いて、そしてますますだめになって、バタンといって、その年に死んでしまったの。今から27年くらい前だ。

 あの「今日も水は流れてますか」の、あれあれ。あれは大変な調査して文面も考えたんですよ。リンゴのために東京に行って、市場に行って、関東の、東京周辺の“麦の碑”とかを見て歩いたの。いろんな碑を。そしてどういうふうに表現すればいいかって、土地改良区の人達もだれも知らないはずだけど。あの碑文を考えたのは親父なの。書いたのは別の人が書いたけど。そういうのをすごく考えてたったの、いつでも。



島善鄰の碑


 父親はまもなく自分は死ぬと、その時に世話になった人達になにか、島善鄰の碑もそうなの、矢沢の。あれは、南原繁氏に書いてもらったのは、頼んだのは照井謹二郎さんがクリスチャンとして、斎藤宗次郎さんなんかを通じて、ただ正確にはわからないけど。この地に生まれると書いてもらったんだけど、あれはね、どうもね、生まれた場所はねどうもあそこじゃないみたいなのよ。ただ、花巻で生まれたって事にしたいと、島先生もそう言ってたらしいのさ。だから、それを何回も聞いてて、亡くなってから作ったんだけど、この地に生まれるとして、あそこに置いたの。要するにおやじがさ、大変な人だったんだよ、島善鄰の。どういう人かといったら、軍人で、東京の第一師団だったかの、副官なんかをした、職業軍人としても身分の高い人で、そっちこっちを動いて回ってたったのさ。島善鄰の孫がこの間来たばかりで、あちこち案内したんだけど。奥さんがさ瀬川家の人なんだよ。瀬川弥エ門ってね貴族院議員をした人がいるの、一日市に。そこの人なのす。浦子さんってね、島先生もそうだけど、浦子さんの弟が、うちの親父の本当に親友だったのさ。そういう事もあって、すんごく可愛がられていたったの。島先生は親父のこと阿部くんってよんでたかどうだかわからないけど、しょっちゅう手紙は来るし、こんなにあるよ。それで、継枝弥平太さんの碑なんかも島先生に書いてもらったり。

 後は億何万の、たわわの云々を、あれ草野心平に依頼したのは親父なのさ。そう、あの一番上に立ってる人が草野心平。文学者ですごく金には困ってたらしいな。あの時代に文学なんかやってた人は生活できなかったと思うよ。まずよっぽど売れねば。だからほんとに火の車だったのさ。屋台火の車。でもそういう言葉選ぶだけでも適切だと思わないか、火の車。賢治に手紙書いたのもそうだったべ。賢治ってすごく裕福な地主の子どもかと思われて、まあ裕福にはちがいなかったけど、米送ってくれとかね、いろんなこと書いているんですよ。関東大震災のあたりだろうけど。

 だって光太郎に言われて、賢治が死んだ時にね、「俺は忙しくてあれだけど、絶対、未発表の原稿が散逸しないように、君行って来てくれ」と金を託されて来たのが草野心平なわけだから。それが今の賢治の研究のもとになっているような人なのさ。今、福島県の磐城のあたりで、いろんな意味で草野心平のこと見直しているみたいだよ。




【取材担当】鹿川、丹後、伊藤
最終更新日: 2021年05月10日
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