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2014年8月16日 の記録
酒造り
投稿者:ふるさと 遺産研究所
カテゴリー: 仕事
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菅原 敬夫さん
(大瀬川地区)

昭和10年生まれ

石鳥谷町大瀬川に生まれ、中学卒業後に酒造りの世界へ。
現在は南部杜氏協会名誉会長を務めています。



子どもの頃

 うちは農家で、私は次男坊なんですよ。兄貴は別なことをやりたいというので、うちを出まして。私が農家を継いだというような状況で。

 大瀬川の小学校から、中学校。通学は徒歩ですね。3キロないと思うけど、曲がりくねって今のように基盤整備もしないころでしたから。往復通学すると、運動になるような距離です。冬も通ったんだから、辛かったという気持ちはないですね。当たり前だったんだから。休んだ記憶はないです。私の同級生は大瀬川でも40人近くありましたから、通学は賑やかなほうだったのではないでしょうか。クラブは、運動はテニスに籍を置いていました。あと科学部に籍を置いていました。



酒造りの道へ―宮城県の石越で修行開始

 兄貴が大学に行って農家で経済的に大変だったので、私は中学を出て家にいました。親父が杜氏をやっていたんですよ。冬場になると外の仕事ができないので、この辺では南部杜氏の出稼ぎが多かったわけです。私も昭和27年から親父と一緒に。深い考えがなく、冬場に仕事ないし、親父から行かないかと言われて。軽い気持ちだったですね。

 宮城県の登米郡石越町という花泉との県境にあったんですよ。私も2年行ったわけですね。石越醸造なんです。銘柄は「澤乃泉」です。11月から3月の末頃までですね。私が行ったときは、杜氏は6、7人くらいですかね。その中に1人、私の叔父が住み込んで夏場は売り方をしていました。顔見知りが多かった。



旭川の「男山」へ

 そこには昭和28年まで2年おって、29年に旭川に行きました。洞爺丸の事故(※)あった年です。9月の末ですね。10月の初旬、事故の後です。旭川へは函館から汽車で5、6時間ではきかないかな。急行で船までひっくるめると、昼夜24時間位かかったんじゃないかな。

 親父の一番小さい叔父が来いというので行ったわけですけど。その叔父も向こうでずっと夏場で暮らす人でしたから、気安く行ったわけですね。

 駅前通の大通り四条。駅から10分もかからない。今その会社は郊外に行ってますけど、当時は街のど真ん中でした。銘柄は「男山」です。北海道では有名な大きな蔵で、私が行ったときは24、5人おったかな。当時は結構、石鳥谷と紫波町出身の方が多かったですね。 そこに5年いました。このうち1年は夏場も通していました。

※洞爺丸の事故・・・昭和29年に台風第15号によって青函連絡船洞爺丸が沈没した事故。



杜氏試験

 杜氏になったのは昭和38年ですね。合格は39年だったと思います。経歴あれば有利だったんです。その頃は経験年数が重要な要素だったんです。

 当初は、受験資格は年齢27歳くらいと経験年数を点数制にして重視して。今は下がっています。経験重視してきたんです。中身は醸造学と効き酒ですね。酒税法と簡単な小論文というような4つで試験しています。

 昭和38年ですから、28歳からかな。若かったと思います。ずっと会社も動かないでそこだけです。修行期間のようなものですが旭川に5年で、青森県の西津軽郡の木造町に1年。福島県の寿々乃井酒造というところで2年かな。昭和38年から杜氏として最初の蔵の石越醸造に戻ってきたわけです。

 (杜氏になる人は)酒はほどほどの方がいいのかな(笑)。あんまりいっぱい飲む人で大成した人はいないような気がするけど。大酒のみの人は飲まれちまって。丸っきり飲めない人はいないですね。



生活と各々の役割

 当時は親分は一つの部屋を持っています。ほかは一つの部屋で共同で枕並べてというかたちですね。今は個室的のようなかたちになってきました。

 その頃は寒造りで朝も早いし、飲んで翌日に持ち越すのでは体が持たない。その代わり朝が早い分、昼寝の時間が長かったんです。朝は5時起き。釜屋さんは、さらに1時間前に起きて、釜に火を炊いて蒸す準備をしなくてはならない。釜も大きいので沸騰するまでに1時間かかる。5時に起きると、甑(こしき)に入れるような状況になるから。蒸して1時間。ご飯前に蒸し米をとってしまう。

 朝日が昇ると気温が上がってきます。もろみは10度以下にならなければ、予定の仕込みの温度にならない。朝日上る前にやってしまうという仕事の段取りでしたね。気温が上がってくる前に、その前に勝負する。

 朝食とってから、それらの後片付けです。(食事は)賄いさんがいればいいし、いないときは自分たちの下っ端がご飯の仕舞いをする。夜は晩酌。飲み放題じゃないけれど。それでも麹の方がその後の24時間が、ほっとくと40度以上になってしまう。ほっとくと上がるので、それをみなくては。麹屋さんは夜中に起きて、それを管理しなくてはならない。麹箱に入れてつくる。十段くらい積み上げると、上と下の温度差があります。それを積み替える。均一にするために入れ替える。場所によって温度調節。麹屋さんは夜の仕事があるから、あんまり飲み過ぎないようにしていた。

 今の酵母は泡が上らない。今は改良されて泡が出ないので管理が楽ですけれど、昔は泡が粘度あるので空気が抜けていかない。泡を押し上げる。発酵すると炭酸ガスが出る。桶からあふれるのを管理する係、順番に起きて見回りする。



失敗談と仕舞い

 毎日のことですから、ちょっとウトウトして泡を辺りに散らかしたことがある。今は保温がマットだけれど、昔はムシロだったんです。泡がムシロに付くと始末に困ったもんです。そんなことも度々ありました。

 2月の末、3月の初めに仕込み仕舞いがありますね。作業が終わると一杯飲むわけですけど、一番ほっとする時期というか、羽を伸ばす時期でしたね。仕込み仕舞いは会社の行事。社長からみんな出て、やったんです。最後に火入れ、殺菌するわけです。貯蔵するために。昔の場合だと5月、6月頃でしたね。



酒の品質

 毎年、酒の味は違いますね。米の質も気候も違いますからね。いかにその会社の品質に合わせていくかが……。今年は甘い、次の年は辛いでは、会社の品質として成り立たない。毎年、若干の違いがあっても、その会社の品質に持っていくかだと思います。

 平成21年から会長になっていますけれど、要請があって、蔵元さんが協会に来て、こういう人が来てほしいと言われ、いろんな話が出て、うちはこういう品質を望んでいますと言われるんですね。場所場所の嗜好に合わせた造りをしなくては。

 蔵に入れば、よく品質の目標を話し合ってから、と言いますね。1年、2年と売っていると、消費者の要望に沿った上で、こうしてくれと要望が出ます。あまり職人根性をもろ出しになると、独りよがりになってしまう。受け入れてくれるところもありますが、環境的に合うといいんですが、そうじゃないところも出てくる。自分で良いと思っても、飲まれなければ……。



どぶろく

 子供の頃はどぶろくありましたね。部落の行事あるときは作っていたんじゃないですかね。取り締まりも盛んだったし。昭和36年に青森県の木造町に行ったんですが、あそこは本場も本場。もの凄かったですね。どぶろくは白いと思うでしょう。あちらのどぶろくは透んでるんです。清酒なんです。ちゃんと絞ってある。米の粒が入っていると、発酵して酸っぱくなっていく。分離して50度以上にすると、ある程度抑えられる。置ける。青森の物はもの凄いと思った。趣味で造ってもダメです(笑)。



南部杜氏の今昔

 南部杜氏の人数は一番多かったのは昭和33年頃、3300人くらい。これは岩手県内の会員だけです。現在は660人かな。このうち五割くらいは県外の方々ですよ。

 うちの協会の講習会に参加するために会員なっている方々です。全国で酒蔵が減ったということもありますが。全国で操業しているのは1200くらいあるかな。最盛期で2600くらいあったんです。三大杜氏(南部・越後・但馬)の中では、南部杜氏の会員が一番多いです。



弟子として働き始めた頃

 その頃の杜氏は職人肌が多くて、技術を直接伝授されるというより、技術を盗めという教えだったですね。自分から進んで聞かなければ、直接親方から教えられることはなかったですね。私自身がこうしたい、ああしたいという考えあったのかなと今考えると思います。その中で、ただ流されるだけではなかった。なんぼか(自分に)技術を盗む気持ちがあったので、今があるのかなという気がします。



酒造りの面白さと醍醐味

 昭和39年の春、すべて作業が終わって蔵人の事故もなく、家に帰れるのは、本当にほっとしたな、何もなくて一年暮らしてきたな、という安堵感がありました。酒の出来もほどほどに良かったので。これも一つ終わったな、という最初の一年の肩の荷降ろした安堵感は忘れられない。

 もう一つは鑑評会で競うわけですが、今年も入賞できたな、というのが目標でもあるし、技術レベルを上げる目標でもあるので、それに達すると安堵するわけではないが、今年も一つのレベルになったなという気はしていましたね。


仕事と家庭

 石越はここから距離的に近いですが、それでもいったん蔵に入れば、投げやりなことはできない。こちら(家)のことを考えていられない。忘れるというわけではないが、悪いけれど、家のことは任せきりというか。子供3人いるけれど、仕方がないから親父の背中を見て育てと言った。家内には苦労かけたべな。

 私たちより10歳以上下だと、新婚の頃だと酒屋に出ない、家にいるという人たちが出てきた。確かに(家内に)苦労はかけたと思います。その頃は冬場の仕事は雪が深いし、なかったので。それに(杜氏の仕事で得る給料は)大きな現金収入だったわけです。それが一番大きかったです。



今の日本酒を取り巻く状況

 日本酒は今では全国でも6パーセントから7パーセントのシェアなんですよ。国酒の日本酒が10パーセントを切っているような状況です。何がここまでにしたのかなというのは、消費者の嗜好が一番大きいのですが、これは私が機会あるごとに話していますが、(酒造会社の)社長さんたちも悪いのさ。大手さん以外に自分のところの酒はこうだよ、とセールスをしなかったのが一番の根本だと思います。大手さんはテレビでもやるが、中小のメーカーさんが自分の酒をPRしなかったのが、大きな原因になったと思っています。昭和50年の後半がピークで、今は3分の1なんですよ。

 以前ように旦那さん然として、杜氏を雇ったら安い給料じゃないから採算が合わなくなってきています。それで目覚めて自分で勉強して酒をつくる。蔵元の子どもさんも勉強していく。生きていくためには、特長のあるものを作らなければならない。自分で、それをPRして特長のあるお酒を出してきています。今は若い人たちはネットも使っているし。誤ると大変なことになるけれど。うまく使うと自分の酒はこうですよ、とPRできるから、伸びていくのは多いと思います。

 去年、ユネスコの無形文化遺産で日本料理が登録になりました。それに乗っかるような日本酒のPRがいいのかなと。国は国家プロジェクトでやっていますけど、輸出用のPRが多いです。輸出(量)はいくらでもないですからね。もう少し国内消費に向けてくれればいいと思っています。



【取材担当】鹿川、高橋、酒勾
最終更新日: 2015年12月28日
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